超ミネラル水ショップ  ネット情報源[2]

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「カルシウム味」を認識?=苦くて酸っぱい第6の味覚-米研究者 8月30日14時34分配信 時事通信

【ニューヨーク30日時事】うま味に続く新たな味覚発見か-。人間がカルシウムを「味」として認識している可能性のあることが、
米ペンシルベニア州フィラデルフィアにあるモネル化学感覚研究所のマイケル・トルドフ博士らの研究で、このほど明らかになった。
トルドフ博士らは、マウスにカルシウム溶液を飲ませたところ、熱心に飲む集団があることを発見。このマウスの舌に、
カルシウムに反応する2種類の味センサー(受容体)が存在することを突き止めた。
マウスは遺伝子の多くをヒトと共有しており、人間も同じセンサーを有している可能性がある。肝心の味だが、「カルシウムっぽいとしか言いようがない。
苦くて、恐らくちょっと酸っぱい」(同博士)という。
人間が持つ味覚としては、甘味、酸味、苦味、塩味、うま味の5つが確認されている。このうち最後に確認されたうま味は、
グルタミン酸などによって生じる味覚で、日本の化学者で故人の池田菊苗が発見した。 

「噛む力」見直そう 健康にも影響、肥満も予防8月31日10時45分配信 産経新聞
生活が豊かになって「とろける」「ふんわり」など“やわらかい=おいしい”という傾向が強まった日本人の嗜好(しこう)。
同時に、子供たちの噛(か)む力も弱まってしまったといわれる。よく噛むことは、食事の基本であるだけでなく、
脳の活性化や生活習慣病予防にもつながることから、噛む力を見直そうという動きが出てきている。(榊聡美)
ハンバーグにカレー、ラーメン、ドーナツ…。焼き魚に根菜の煮物といった和食の献立が中心だったころに比べ、
「軟食傾向」の現代は噛む回数がかつての約半分に減ったといわれる。
「噛むことは意外なほど健康に大きな影響をもたらすものなのです」と、和洋女子大学の柳沢幸江教授(栄養学)は話す。
この3大効用を「唾液(だえき)を多く出す、食べ過ぎを防ぐ、脳への刺激を増やす」と説明する。
唾液の分泌量は噛んだ回数と比例する。唾液には消化・吸収を助けるアミラーゼや、
細菌や発がん性物質を減らすラクトペルオキシダーゼといった酵素、味覚機能を高める物質のガスチンなど、健康に役立つ有効成分が多く含まれる。
また、咀嚼(そしゃく)することで脳にある満腹中枢を刺激し、食べ過ぎ、さらには肥満を防ぐ。脳の血流がよくなって、記憶力や集中力も高まるという。
「お年寄りの脳を調べたところ、歯の本数が多い人ほど記憶に関与する海馬の容積が広いことがわかっています」と柳沢教授。
運動としてだけでなく、よく噛むことで食べ物の味と香りが引き出され、きちんと味わって食べることができるのも大切な点だ。
噛む量を増やすには、どうしたらいいか。まずは、食生活に根菜類や乾物など噛み応えのある食品を積極的に取り入れる。
調理をする際は切り方を大きめにする。反対に、食べるときは一口分の量を減らし、何回にも分けて口に運ぶ。
食事にゆとりをもつことも重要なわけだ。
柳沢教授らは、子供からお年寄りまで幅広く「噛む」ことを意識してもらおうと、米菓に「かたさ度」を表示するプロジェクトをすすめている。
せんべいやあられの硬さを、機器の測定と官能検査によって5段階に分け、包装に表示するもので、
来月から「かたさ度」を示すマークが入った商品が順次お目見えする。
一方、「噛む」ことに特化した2つの商品が来月8日に発売される。
キャドバリー・ジャパンの「リカルデント カムパワー」は、噛む力に着目した板ガム。独自の製法により適度な噛み応えと、
さわやかなミントの味が長く続くのが特徴で、場所や時間を問わずに、手軽に噛む力を鍛えられるという。
永谷園は“噛んで味わう”という新発想のそば「噛む。」を発売する。通常の2倍以上の超極太そば(乾めん)で、
ラーメンに使用するかんすいを加えることで強いコシが出て、これまでにない噛み応えのあるめんに仕上げたという。
味覚の秋は、しっかり噛んで、じっくり味わうことを心掛けたいものだ。
子供が好きなハンバーガーやケーキは脂質が多く、噛む回数が少ない食べ物。脂質は溶けて口当たりがなめらかになり、噛み応えが少ない

キラーT細胞の働き調節 東北大グループ、物質特定 9月9日6時12分配信 河北新報

東北大加齢医学研究所の高井俊行教授(免疫学)らの研究グループは、樹状細胞という免疫細胞にある
受容体タンパク「PIR(ピア)―B」が、ウイルスやがん細胞を攻撃するリンパ球「キラーT細胞」の活性化を阻害していることを突き止めた。
キラーT細胞は移植された臓器も異物として攻撃してしまうが、PIR―Bの働きを活性化させれば、
移植医療の成功率上昇が期待できる。逆に働きを抑えれば、がん治療に有効という。
ウイルスなどに感染した場合、樹状細胞の表面にあるMHCクラス1分子が抗原の一部と結びつき、異物侵入を知らせる。
抗原を認識したキラーT細胞は活性化し、ウイルスを攻撃する。キラー(殺し屋)と言われるゆえんで、
臓器移植ではキラーT細胞が移植片を攻撃するため、免疫抑制剤が投与される。
研究グループはPIR―Bをなくしたマウスに、がん細胞の接種と皮膚移植を行い、キラーT細胞の働きを調べた。
PIR―Bのないマウスは活性化が強く、がん細胞の排除率は70%で、正常マウスの40%を大きく上回った。
逆に、移植した皮膚の生着率は正常マウスの方が良かった。
樹状細胞のMHCクラス1分子に、キラーT細胞の受容体タンパクCD8が結合するとキラーT細胞が活性した。
反対に、PIR―Bがつながると働きが抑えられることが明らかになった。
MHCクラス1分子は免疫応答のスイッチの役割も持ち、CD8とPIR―Bが競合して結びつき、免疫の働きを左右していた。
高井教授は「現在の免疫抑制剤はすべての免疫機能を抑えてしまうが、PIR―BのコントロールでキラーT細胞だけを制御できる。
移植患者にダメージの少ない免疫調節が可能だ」と話している。

脚気と悪者森鴎外 http://homepage3.nifty.com/ymorita/neta5.htm
森鴎外って知っていますか? そう、夏目漱石と並んで明治の文豪として有名です。
 では、彼の本業を知っていますか? 彼の本業は作家ではないのですよ。そうそう、よく知っていますね、彼は医者、陸軍の軍医です。しかも、最終的には陸軍軍医総監(陸軍軍医の最高職)にまでなります。
 私も高校生のとき、「舞姫」を読みました。そのときの感想は正直に言って「ひどい人だ」でした。
 さらに、軍医として彼が犯した過ちを知ったときは、「とんでもないヤツだ」と思いました。

 病気の原因が細菌によるということは今では常識です。しかし、これは1876年に、コッホが見事に証明してみせるまで、なかなか明らかにはならなかったのです(今からたかだか120余年前のことです)。
 それまでは病気の原因に、悪い空気や生活環境や果ては悪霊まで持ち出していました。当然その治療方法は、せいぜい患者自身の体力に頼るものであり、意味のないもの、さらにはかえって病気を悪化させるものまでありました。
 コッホの登場により病気の原因がはっきりすると、まずその予防法(例えばコレラに対しては汚染された川の水を生のまま飲まないこと、ワクチンなど)が、さらには治療法(細菌だけを殺す薬:サルバルサンの開発や後に抗生物質など)が確立されていきました。
 これとほぼ同時期に日本では江戸時代が終わりを告げ、新政府による明治が始まりました。医学においても西洋の知識を急速に取り入れるため、日本はめざましい進歩を遂げたドイツ医学を学ぶことにしたのです。ただ、海軍だけは航海術とともに昔から結びつきの強かったイギリスに学びました。このころのイギリス医学は原因の追及よりも治療に重点を置いたもので、ドイツの華やかさに比べればやや見劣りがしました。
 このような中で、政府、陸軍、海軍ともに優秀な人材をそれぞれドイツやイギリスに派遣し、第一線の医学を学んで日本に持ち帰らせました。北里柴三郎(コッホ)、森鴎外(コッホ)、高木兼寛(セント・トーマス病院)などが有名です。
 西欧では全く見ることがなかった病気が日本にはありました。脚気という病気です。この病気は、手足のしびれ、動機、足のむくみ、食欲不振という症状で、進行すると歩行困難になり最後には心不全で死亡するというものです。西欧にはなくアジアにだけ存在するので風土病であると考えられていました。
 この脚気が日本の軍隊で猛威をふるい、深刻な事態となっていました。一端患者が出始めると次々と患者が増えていくことから、伝染病という見方も有力でした。ひどいときには、兵士の大半が脚気にかかり、とても戦争などすることができる状態ではなく、軍隊の存亡に関わる問題となってきました。
 そんな中で、海軍医務局長の高木兼寛(後の海軍軍医総監)は、西欧と日本の軍隊の違いは食事にあるとして、白米ではなくパンを中心とした食事(後に同じ麦ということで麦飯に変えている。当時の日本人の中には「パンを食うぐらいなら死んだ方がまし」というくらい洋食が苦手だったらしい)をとれば、脚気にかからないことを証明し、脚気の解決法を明らかにしました。その結果、海軍では脚気患者はほとんど見られなくなりました。
 しかし、ドイツの細菌学を中心とした陸軍軍医の上層部には納得できませんでした。病気の原因もはっきりしないまま、食事の改善などということで、病気が治るはずがないと考えたのです。彼らにはコッホ以前の迷信的な治療法のように感じられたのです。また、脚気の病原菌が発見されたという誤報もあり、高木兼寛に対して、露骨に反対をしました。
 ここで登場するのが、悪役の森鴎外です。ドイツに留学中の森は、高木兼寛に反対する論文を送ってきました。これは、高木批判の大きな力となりました。さらに、帰国して一等軍医となった森は、脚気の原因は細菌であるという信念のもとに、徹底的に高木を攻撃しました。
 こうして、陸軍の中央では麦飯の導入には徹底して反対していました。ところが、実際に現地で兵を管理している地方の軍医たちにとって相変わらず脚気は脅威でした。そこで、独自に麦飯を取り入れ、大いに効果を上げて脚気の患者を減らしていました。
 しかし、戦争が起こると話は変わります。日本から離れた場所で行動する軍隊に後方から食料を送るのは中央の権限です。ここでも森鴎外は、頑固に麦飯の効果を否定し続け、現場からの要求に応じず、麦を供給しませんでした。その結果、海軍では脚気による死亡患者はほとんどなかったのに対して、陸軍では、日清戦争では 3944人(戦死者は293人)、日露戦争では27800人(戦死者は47000人(この中にも多くの脚気患者がいた))という非常に多くの兵士の命を脚気によって奪う結果となったのです。
 森鴎外らが高木の成果に対して柔軟な姿勢をとっていれば、死なずにすんだ多くの人間の命を奪ったのです。しかし、森鴎外は生涯、誤りを認めませんでした。

 さらに、脚気については、思わぬ展開もありました。
 東京医学校(後の東大医学部)を卒業し、医学校の緒方正規の世話でドイツに留学していた北里柴三郎は、留学先のドイツで恩師である緒方の「脚気の病原菌説」を誤りであるとして否定しました。日本では、恩を仇で返したとされました(真実を求めるのに恩など関係ないと思うが)。帰国後、伝染病研究所をつくり、内務省に所属させようとしていた彼の計画を、東大と文部省が反対し、彼は窮地に立たされました。
 この窮地を救ったのが福沢諭吉です。私財を投じて伝染病研究所を自分の所有していた土地につくりました。また、その後も北里の力になり続けました(これに恩義を感じた北里は後に慶応医学部の初代部長を引き受けています)。
 こうして、活躍の場をあたえられた北里は、香港でペストの原因であるペスト菌を発見しました(世界で最初ですが、確認したのはコッホです)。
 しかし、またもや日本の東大を中心とした医学会は北里の発見したものはペスト菌ではなかったとして批判しました。また、森鴎外もこれに同調し、辛辣な批判をしています。

 結局森鴎外は、陸軍軍医の最高位まで出世し、文豪としても名を馳せましたが、医学の歴史の中では、百害あって一利無し(無いわけではないと思うけど)という人物だったように思えます。


参考文献
「白い航跡」吉村昭著(講談社)
「世界の科学者100人」竹内均監修(教育社)

森鴎外  軍医として wikidpedia

上記のとおり、鴎外は陸軍軍医であり、かつエリートとして昇進を続け軍医総監(軍医中将に相当)にまで上りつめた。 当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について細菌による感染症との説を主張し、のちに(及びイギリス医学)と対立した。自説に固執し、当時海軍で採用していた脚気対策の治療法として行われていた麦飯を禁止する通達を出し、さらに日露戦争でも兵士に麦飯を支給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)。但し当時の医学水準上(ビタミンの未発見)麦飯食と脚気改善の相関関係は科学的に立証されておらず、高木側は脚気の原因を蛋白質不足であるとしていた。ともあれ結果的に陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名近い兵士を病死させる事態となった(同時期、海軍では脚気患者はわずか87名。高木により食品と脚気の相関関係が予測され、兵員に麦飯が支給されたためである)。実に2個師団に相当する兵士が脚気で命を落とし、また戦闘力低下のために戦死した兵も少なくなく「(鴎外は)ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した」との批判も存在している。日露戦争終戦直前、業を煮やした陸軍大臣寺内正毅が鴎外の頭越しに麦飯の支給を決定、鴎外の面目は失われることとなった(寺内は日清戦争当時、具申した脚気対策に麦を送れと言う要望を鴎外により握り潰された経緯がある)。「予は陸軍内で孤立しつつあり 」とは、この頃の鴎外の述懐である。

後に鈴木梅太郎が脚気の特効薬であるオリザニン(=ビタミンB1)を発見し、脚気との因果関係が証明されて治癒の報告が相次いだ。しかしその後も鴎外はかたくなに鈴木および学会の見解を批判した。また、赤痢菌を見つけた志賀潔などが脚気の栄養由来説を支持したこともあり、医学界でも脚気栄養起源説が受け入れられつつあった。この頃より鴎外の医学界での孤立はますます深まった。結局、鴎外は死ぬまで「脚気は細菌による感染症である」との自説を撤回しなかった。脚気栄養起源説の国家としての見識が示されたのは鴎外の死の2年後であった。

鴎外を擁護する立場からは、下士官・兵達の「入隊したからには白米を食べたい」という声があり、当時、麦飯は白米に比べ美味でないとされていた(麦の精白技術が現代ほど発達していなかったため)こと(脚気の歴史)を考慮すべきとの意見もある[14]

麦飯食を推進した高木兼寛は都市衛生問題で「貧民散布論」を提案し、東京から貧民を追い出すべきとの主張をしていた。この主張はたしかに医学的・公衆衛生学的にはある程度評価できるものであったが、人道上の大きな問題があり、その立場から「貧民散布論」を徹底批判したのが鴎外ということもあって、両者の間には感情的にも深い対立関係が存在していた。

加えて脚気細菌起源説は鴎外のドイツ留学実現に尽力した石黒忠悳の主張だった。このため当時ドイツ留学が国費留学以外に不可能だったという事情を鑑みる向きもある。なお、森鴎外も食事上の栄養価については考慮していて、日露戦争時は新たに兵に十分な肉と野菜を与えるように指示していたが、脚気は細菌に由来すると考えていたため、脚気を考慮していたものではなかった。(ただし、当時肉として主に使われていた豚肉には大量のビタミンB1が含まれているため、森鴎外の指示が行われていたら、脚気は発生しなかった可能性が高い。)日露戦争では補給が滞り現地調達も困難であったため、米のみで熱量(カロリー)を補給する事態となり、鴎外らによって麦飯の補給を止められた陸軍では、大量の脚気患者と死者を生み出す結果となった。

『森鴎外全集』には医学に関する論文が多数収められている。また、なぜビールに利尿作用があるのか、といった研究も行っている。軍医であったためか「情勢を報告する・させる」目的から「情報」という言葉を考え出した人物とも言われる(異論もある)。

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