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医学の歴史   梶田昭著 360p

Ⅰ、人類と医学のあけぼの

1、森の中での医学の始まり。

医学は人間の「慰めと癒し」の技術であり、学問である。~サルの毛つくろい。 魚類、爬虫類には考えにくい。

儀式が道具を作り、火の利用とともに人類の知的発展の重要な証拠。共通の目的のために協力する。~公衆衛生の芽生え

2、無文字社会の医学

小川の水で子供の頭を冷やす。

ヘロドトス~病人を広場に連れて行き、同じ経験をした人に直し方を尋ねる。広場の人は「どうしたの?」と訊ねなければならない。

医療の癒しと医療は長い間未分化だった。 床屋外科 外科が医学の一部になったのは19C初め

3、文明の中の医学

新石器時代~繊維衣料

「人間である私にとって、人間に関することなら、何であれよそ事ではない」(テレンティウス(BC195~BC159)

ヘロドトスの旅(ハンムラビ法典から千数百年後)

古代バビロニア~まじない師、占い師兼治療師という3種類の僧侶が医術を行っていた。

医学史家シゲリスト「医学序説」(1931年)~原始医学~経験、宗教、呪術~シャーマン

中国~巫(ふ)と医は未分化  酒は薬草を意味した。

孔子~「人にして恒かくんば、以って巫医をなすべからず。」~根性のない人はシャーマン医のもなれない。(医は賤業であった。)

戦国時代から漢代にかけて、「サケの医」になった。~薬がおまじないより効くことが認められた。

4、古代の治癒神たち。

医術は自然の経過を妨げるべきでない。(ヒポクラテス)

アスクレピオスの神殿~医学校になった。

アスクレピオスの娘たち~バナケイア~万能薬、  ヒュギエイア~衛生 イソアー~癒し  の意味に使われる

アスクレピオスの「蛇杖」~医学

5、常識と医学と呪術

エピダウロスの丘~患者の群れ  昔も今も医療を支えるのは患者の治癒者への信頼であった。

治癒者への信仰はアスクレピオスからイエスとマリアへと換わった。

呪術と宗教から自然を観察するようになったのは、前6世紀ころ~イオニアのギリシャ植民地でおこった。(ソクラテス以前の哲学者たち)~科学の起源(経験医学)

エーゲ海コス島の人ヒポクラテス ギリシャ全土にアスクレピオス派のギルドがあった。ヒポクラテスもその一員

丸山真男~社会が安定期~オプティミズム、変動期~政治、混乱と腐敗期~逃避と頽廃 (元禄、享保に荻生徂徠の政治学):人の健康から病気にも
                                                                                   当てはまる。

人間の精神は肉体より貪欲である(中村光夫)~医師が直してくれなければ、呪術に頼る。

「他者愛の臓器享けても生くべきや、さほどの「生」のこの世にありや」~伊岐和男

永久機関の開発~不老不死 と同じ

「医学が成立する条件」

医師は未病の友、生理の相談役であって、治療師であってはならない。~中国古典「素問」

「医学の場合には、病気ないし死から逃れようとする本能的な、また至上命令的な人の要請と、科学的な実現能力とのほとんど絶望的なdiscrepancy(隔たり)
があって、その距離を多くの蹉跌を繰り返しながら、何とかして埋めてゆく過程が医学史ないし医療師であった」(川喜田愛郎)

常にに出来ることは、「悩み」に対応する「慰め」なのに、たまにしか出来ない「癒し」を看板に掲げたところに、医学の宿命的なつらさがある。

6、回顧と展望ー健康を守る為の人類の挑戦

7つの挑戦~①人類が儀式を知った。(ネアンデルタール人の墓) 社会の一員と言う自覚~衛生の可能性

        ②文明の誕生

        ③ペロポネソス半島とエーゲ海 宇宙と人間と病気の本姓を問うた。~病気は自然過程だ。~ヒポクラテス。 小アジアのガレイノスはギリシャ医学を
                                                                                          大成した。

        ④前6世紀~7世紀  中国の儒教、道教 インドの仏教ヒンズー今日 西アジアのキリスト教、イスラム教~人の魂の解放を目指した哲学、宗教が誕生

        ⑤西欧ルネッサンス  バラスケス~ギリシャ、イスラム医学からの独立を叫んだ。戦乱の中で外科と解剖が発達した。ハーヴェの血液循環説
                      17~18世紀~オランダのライデン大学、スコットランドのエディンバラ大学  19世紀パリ~病院医学

        ⑥産業革命  労働者の健康を悪化させた  労働者の健康に医師が目を向けた。~公衆衛生、社会衛生

        ⑦19世紀後半~「研究室医学」がドイツ「自然哲学」から発達:ウィルヒョウ、ヘルムホルツ 疫病と病因~病原微生物学、化学療法、免疫学

Ⅱイオニアの自然哲学とヒポクラテス

1、人知が開け始めるとき。-中国、インド、ギリシャ

2、ソクラテス以前の自然哲学

BC6C~イオニア(現トルコ)で人類最初の哲学(コス派、クニド派)  タレス(万物の根源は水)、デモクリトス(アトム説)ヒポクラテスの親友

3、体液病理説の誕生

古代人~病気は一つ。体全体が病んでいる、と考えた。 インド人、ギリシャ人~体液病理説~18Cに病理解剖学が生まれるまで、支配した学説。

ヒポクラテス「人間の自然性について」~人間は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁からできている。

4、ヒポクラテスの登場(BC460~BC375)ソクラテスと同年代。プラトンが彼を記録した。BC3C 「ヒポクラテス集典」

5、ヒポクラテスの医学とは

てんかん、中風、錯乱、狂気、インポテンツの説明に超自然的なものを排した。

効果は治療より自然によるものと見抜いていた。

「生命は短く、技芸は長し。機会は逸しやすく試みは躓くもの。そして、判断は難しい。」

①ヒポクラテスの自然治癒説

悪いものは、嘔吐、下痢、排尿、喀出、発汗、出血、化膿で排出される。怪我は炎症で煮沸される。膿で排出さされる。

自然は教えられずに何でもやる。医師の仕事は自然治癒にチャンスを与えることであり、これを妨げるものがあれば除けばよい。

②「病名のない病理学」

ヒポクラテスは遍歴医だった。

クニドス派~診断が重視された。病気分類が行われた。

6、再発見されたヒポクラテス

ガレノスはヒポクラテス評価を集大成~「自然の機能について」

7、科学時代のヒポクラテス医学

19C以降の科学時代に批判される。クニドス派が評価される。

Ⅲアテナイの輝きとアレクサンドリアの残光

1、2人の大哲学者~プラトン、アリストテレス

①プラトンの自然哲学と「魂」の区分

②アリストテレスの生物学(BC384~322)

比較解剖学の創始者 「動物誌」「動物分類論」「動物発生論」  魂は心臓にある。脳は体液を冷却しているだけだ。

組織と機関を区別した。 霊魂は生命であり、人だけでなく全ての生物にある。無生物と生物物は超えられないものではない。絶えず移り変わる。

2、アレクサンドリアの医師たち

アレクサンダー大王死後300年、ヘレニズム文化 アレクサンドリアが文化の中心となる。

①解剖学の父ヘロフィロス~十二指腸、知性は脳の働き。動脈と静脈の区別、 ヒポクラテスの自然治癒主義から一歩踏み込んだ積極的治療を行った。

②生理学の父エラシストラトス~デモクリトスのアトム説を支持。「不感蒸泄」(知らないうちに水分が体内から蒸発すること) 体は血液と二つのプラウマからなっている。

③プラウマと何か~インドのヴァータ、中国の気に通ずる。 霊、魂

ヘレニズム文化はプトレマイオス王朝崩壊後、衰えた。

④医学にとっての解剖学

理髪と兼業だった外科が解剖学と交錯しながら発展し、18C~19Cにかけてその垣根は取り払われた。

長くこのことが実現しなかった理由~液体病理説が長く主流であり、病気の局所性に考えが及ばなかった。 また、キリスト教は肉体を軽視た。

解剖学が市民権を得た理由~ルネッサンスで肉体の美とメカニズムに価値を認めた。宗教改革が起こった。
                 ~ギリシャ・アラブの伝統医学を近代西洋医学に変貌させた。

体液病理学説~排泄物の観察で内容を豊かにした。

固体病理説~解剖学により内容を豊かにした。

Ⅳ、イエス、ガレイノス、そして中世

1、パレスチナの治癒師イエス

「クリストゥスなる者は、ティベリウスの治世下に、元首属使ポンティウス・ピラトゥスによって処刑された」(タキトゥス)

キリスト教はヘレニズムと並ぶ普遍思想である。

病気は罪、と考えられていた。

2、ローマ人の医学

古代ローマ人 平均寿命 男22歳 女21歳 (アメリカ統計学者 マクドネル)

ケルスス~「医学論」~発赤、腫れ、熱、痛みと言う炎症の4大徴候

プリニウス~「博物学誌」

ディオスコリデス~「薬物について」 ルネッサンスまで薬物、薬理学の教科書

3、古代医学の総決算ガレノス(129~199)

①ガレノスの生涯

②ガレノスの解剖学

7つの脳神経を区別した。知覚、運動神経を区別、交感神経を発見した。

③ガレノスの生理学

第一の消化~口 第二の消化~胃 第三の消化~からだの末梢(血液が組織に変わる)

④ガレノスの病理学

医師としてはヒポクラテスに忠実(四大体液説、4つの元素、4つの基本性質)

自然治癒への信念は彼より強かった。~膿を歓迎した。 食事、マッサージ、運動.植物生薬、瀉血

4、中世医学

ガレノス以後は不毛。ローマのラテン語は医学書を生まなかった。

529年ユスティニアヌス帝 アテナイの学園を閉鎖。 ベネディクト派の僧侶がモンテ・カシーノの修道院を建てた。~中世の始まり。(500年~1500年)

①サレルノとモンペリエの医学校

9C~12Cに栄えた 「サレルノ養生訓」 尿検査を重視

13C フランスのモンペリエに医学教育の首位を明け渡す。

②病院と看護の起源

BC100年 ローマが病院を建てる 病人は社会から隔離されたが、キリスト教は看護人との親密な関係を奨励した。

カッパドキアに病院を含む新しいコロニーを作った(司教パシリウス)

542年貧救院  1145年フランスのモンペリエ 聖霊病院

11Cの十字軍は病院建設を促進した。

15C自立した都市が病院を作った。らい患者の隔離、こじき、売春婦を救済、疫病の犠牲者を埋葬~保健事業に乗り出す。(教会から世俗事業へ)

1540年 ヘンリー8世 教会財産の没収

5、疫病の時代~中世からルネサンスへ

6世紀(東ローマ帝国のユスティアヌス帝)、14世紀(ヨーロッパ、四分の一が死んだ。) ペストの大流行  その間はらい病に悩まされた。
人が都市に密集し出した時と重なる。(ネズミ、蚤の大発生)

汚染船を検査すべき~行政による「公衆衛生」の思想生まれる。 1453年 コンスタンチノープル陥落。

 

Ⅴ、インドと中国の古代医学

1、医学における紀元1000年と2000年

医学に「癒しと慰め」を求める声は強い。~アジアの責務 ラッセルがアジアの文化を対等にうけいれっるように、主張した。(1955年)

2、アジアは何を貢献してきたか

①食と衣に対するアジアの貢献

茶、コーヒー、チョコレート

絹、木綿

3、古代インドの医学

①インダス文明~BC2300から500年間栄えた

②ヴェーダの時代~BC1500年 アーリア人進入  祭官の祈祷書~病気治癒の呪文を多く含む

③呪術から経験医学へ

 アーユル(生命)ヴェーダ(知識)

④仏教とアショーカ王の時代

病院がキリスト教の発明、とするのは間違いだ。(ウイルヒョウ) BC5C~スリランカで病院、保養所建設  アショーカ王の碑文にも病院が見られる。

⑤アレクサンドロス大王が来たころ

4、古代の中国医学

古くは巫医 殷の時代に経験医学が芽生えた。周代から春秋戦国時代に鍼灸治療が現れる。(民間ではもっと古くから行われていた。松下)

中国医学の特徴~・鍼灸の発展 ・鍼灸療法と結びついた医学理論形成 ・この医学理論が薬物療法を中心とする医学全体の基礎理論に発展した。
            戦国時代(BC403年~BC221年)から後漢(25~220年)にかけて進行した。

①ヘンカク~中国のヒポクラテス 同時代人 経験医学の祖
・わがままで道理に従わない、・金銭を大切にして、体を大切にしない、・病人にふさわしい食と衣でない。・精神状態が安定しない、・衰弱しきって薬を服用できない
・巫を信じて医者を信じない。

②黄帝内経~治療の対象は生・未乱・未病であって、死・乱・病ではない。

③傷寒論~後漢末、観察が哲学に優先する

Ⅵシリア人とアラブ人の世界史的役割

ヘレニズム科学はシリア人、アラブ人がビザンチン文化圏から受け継ぎ、3つのステップを経て伝達された。5C~6C シリア語に訳される→8C~9Cシリア語からアラブ語へ訳す。→イベリア半島から西洋に(12Cのルネッサンス)

1、医学史におけるシリア

①ネストリウス派の医学校

キリスト教~2C エデッサ ニシビスに学校を建てる~神学、天文学、音楽、医学

ネストリウス 431年破門される。~シリアに移住  ギリシャ科学がシリア語に翻訳される。

2、アラビア文明の医学

570年ムハンマド誕生  ネストリウス派を公認した。シリアを介してギリシャを訳した。

②アラビア・ルネサンス

8~9C シリア語からアラブ語に訳された。

4、イスラムの衰退と西欧への科学、医学の移転

Ⅶ、芸術家と医師のルネサンス~中世からの離陸

1381年 イギリス農民蜂起を指導~ジョンポール(アダムが耕し、イヴが紡いだとき、ジェントルマンはどこにいたか?)

751年 唐の製紙工が捕虜としてサマルカンドに来る。 12Cに西欧に広がる。 15世紀大航海時代

1、新しい医学は芸術家の工房から

新しい医学の胚芽~埋もれていたギリシャの解剖学~芸術家が先鞭 芸術と科学は未分化であった。

2、大学の成立

ユニヴァース~一つになる(ギルドのこと)

1088年ボローニア大学  1150年 パリ大学  大学はイスラム世界の方が早かった(10Cプラハ、カイロ)

神学、法学、医学

ルネサンスと科学は大学の外にあった。ガリレオ、ニュートンは大学外で活動した。 この傾向は19Cまで通続く。

3、二人の全能人~フラカストロとバラスケス

フラカストロ~疫病が種子によって伝播する。 病気の個別化を目指した。

バラスケス~「天因説」「毒因」「自然因」「精神因」「神因」 人体は硫黄、水銀、塩から構成される。「鉱夫病」(特定の職業病気について書かれた最初の本)

4、アグリコラと「デ・レ・メタリカ」

5、解剖学者ヴェサリウスと外科医パレ

1543年 「ファブリカ(人体の構造に関する7つの書)」(コペルニクスの「天体の回転について」) 

イタリア戦争(火薬、砦~近代戦争の元)~ニワトコ油による焼シャクをせず、軟膏を塗った。(戦場)

6、ジャン・フェルネルとミカエル・セルヴェトゥス

ジャン・フェルネル~パリ大教授~「一般医学」~病理学」「生理学」「治療学」 占星術を拒否

ミカエル・セルヴェトゥ、ス~「キリスト教の再建」 カルヴァン派によって火刑。
・血液は肺を通過しそこで大気と交じり合って色を変える(鮮紅色) ・心臓から肺への血流は、その血管径からみて、たんに肺の栄養のためとは思えない
・心室の中壁には血液の通過を許す構造は認められない

Ⅷ、科学革命の時代~17C

・神学者ではない合理的、実践的な知識人が担った。・現象の背後にある本質よりも、現象そのものの解析を行った。・科学が技術と結んだ
・研究者の組織が出来た

1、ガリレイ、力学、形態学

帰納法が演繹法を攻撃。アリストテレス、聖書を破壊した。

パドヴァ大学教授を辞す。「天文学対話」「新科学対話」

2、ハーヴェの血液循環

動物は卵から誕生する  1628年「心臓と血液の運動」~近代医学の始まり

3、医物理派と医化学派

ベーコンは実用性に基づき、デカルトは明晰性に基づいて科学を再構築した。

17C物理、化学を医学に応用しようとする動きが始まった。その根底に、これらの哲学があった。

サントリオ~体重計、脈拍計の発明

ヘルモント~気体の発見、炭酸ガスの発見  尿の濃縮と希釈という化学病理学を開いた

シルヴィウス~消化生理学 醗酵と醗酵素の役割  臨床教育の改善

17C中 リンパ、リンパ管構造

ロイヤル・ソサエティーと「見えないカレッジ」

4、科学とプロテスタンティズム

プロテスタントが科学者に多い理由~①プロテスタント運動は司祭のの指導と権威に挑戦し否定し、事故の宗教的体験の中に真理を見出そうとしたこと。
                      古代、中世の科学者に背を向けて自分で自然を説明した。両者は類似の思考方法である。

                       ②宗教的目的を達成するための科学の利用。「良い仕事」が救済の保障なのであり、科学研究は「良い仕事」に含まれた。
                        ガリレオ、ケプラー以後、カトリックのイタリア、ルター派のドイツから、イギリス、オランダ、フランスへ科学活動の中心が
                        移った。ドイツ、イタリアは19Cまでガリレオケプラーほどの科学者を生まなかった。

5、心と脳の17世紀

デカルト~精神の機能が生まれるのは脳室、居場所は松果線。

トマス・ウィリス(イギリス)~「脳の解剖学」(1664年)~動物の魂は肉体の魂。人の魂は理性の魂。解剖のメスの届かない彼方に神の領分を設定した。
それまで、脳室に帰せられていた神経機能を、知覚は線状体、想像は資質と基底核の間の白質、記憶は大脳皮質、と局在させた。

6、イギリスのヒポクラテス~シデナム

シデナム~1665年疫病がロンドンを襲う。 医師は病気の症状、経過、治り方を知り。学ばなければならない。理論はいらない。
       病気とは病人と外因とのたたかいだ。外因が働くと障害が現れる。これが、第一の症状だ。しかし、自然治癒力がそれに対して打ち勝とうとする。
       その反応が第2の症状である。病気は自然の過程、自然が営む治癒活動である。医師の仕事は、その自然の治癒活動を助けることだ。(以上は
       ヒポクラテスと同じ。) その為には。「その病気は何か。」(~次の時代の「病理解剖学」が開かれた。)を知らなくてはならない。同じ病気なら、別の人に
       起こっても症状は同じである。(リウマチと通風を区別した。) ヴェサリウス、ハーヴェも読むな。ドンキホーテだけでたくさんだ。

7、「働く人々の病気」~ラマッチーニ(1700年)

「どんな症状か、何が原因か、かかって何日目か、便は出るか、どんな摂生法をとっているか」(ヒポクラテス)に加えて「どんな職業化」を問え。(職業病医学)

抗夫、錫細工人、鍛冶屋、下水掃除人、墓堀人、パン製造人、石屋、洗濯女、馬丁、農民、漁夫、兵士、水夫、猟師等の常民が医学の舞台に登場した。

スミス「国富論」(1776年)

Ⅸ、近代と現代のはざまで

18世紀~解剖学の方法が浸透し、外科が権威を増し(このことが現在も続き、手術過多の批判と反省を生みつつある。松下)、種痘が試みられた。
      衛生学も発展した。

1、全ヨーロッパの教師ブルーハーフェ

17C中葉オランダは世界の商業、金融の中心だった。

ブルーハーフェ~ライデン大学の教授  患者の全身について病気の有無や種類を調べ、診察と予後が判断され、治療計画が立てられた。
                                                                     組織だった臨床の始め。

次の時代には、生理学、病理学を一手に修める時代ではなくなった。

ウィーンとエディンバラに引き継がれ、エディンバラ大学に留学したアメリカ人は、アメリカ医学の指導者になった。

2、植物学者・医師リンネ。

ウプサラ大学医学部教授~スウェーデン最古の大学(1477年)

「自然の体系」  中世・近代のヨーロッパでは、医学は植物学を重要な要素として含んでいた。

3、アルプスの詩人・生理学者ハラー

1747年 「生理学初歩」

あらゆる病気は「神経原理」の病的なしょうがいであり、その修正。補正に向けるのが正しい治療である。

4、ハレの町の二人の医学教授~1694年 ハレ大学設立 教授になった。

シュタール~機械論の生命現象への適用は不可能~人とは心である。心が構造に働きを与える。全ての病気は心の病気である。

ホフマン~可能

5、病理解剖学の花開くーモルガーニ

カレン、やブラウンの神経病理学が人気を集めていた。~病気は常に全身病であった。 
これに対して「病気はどこにあるのか」の問いが発せられていた。(パドヴァー)

モルガーニ~「解剖学的に研究した、病気の座と原因について」(1761年80才ころ)~<病気は局在する> <病気の座は器官である>~近代病理学の曙

解剖学的変化を、生前のの症状と結びつけて理解するには、その器官の動きを知ることが必要だ。死刑囚には解剖学しかないが、肺結核患者には
                                                                              病態生理学がある。

6、スコットランドの外科医・病理学者ハンター

比較解剖学、発生学(動物が派生の初期に単純な動物に似た構造を示すことに興味を持った。) 1763年7年戦争終了軍医を辞めて、ロンドンで開業。
弟子にジェンナーがいた。1794年「血液、炎症、銃創についての研究」が発刊。(死後1年)  炎症は病気の原因であるばかりでなく、治癒の様式である
18世紀 医学と外科は別であった。ハンターは外科的観察と実験を全ての医師の共有財産にした。(最初に両者に橋を架けたのは、パレだったが、かれは
それを補強した。次の世紀にピルロートが完成させた。)

7、天然痘と戦った医師、ジェンナー

軽い天然痘にかかっておくと、天然痘にかかりづらいことは、東方で知られていた。~インド:赤ん坊を天然痘患者の衣服でくるむ。中国:患者のかさぶたの粉を鼻から吸い込んだ。コウカサスでは皮下注射した。1718年イギリス、7人の犯罪者、6人の孤児に接種し、感染にさらした。成功後王子たちに接種された。

ジェンナーは故郷に帰った。牛痘にかかると、天然痘にかからないことは知られていた。~種痘に牛痘を使うことを思いついた。1796年8歳の少年に実験する。
実験結果を王立協会へ送ったが無視された。1798年~「牛痘の原因と効果についての研究」 雌牛~vacca→vaccines(ワクチン)

8、ヨハン・ペーター・フランクの医事行政(public hygiene~公衆衛生)

21歳で開始し、「完全な医事行政の体系」(1779年、彼は72歳)~結婚、妊娠、出産の衛生管理を主題としていた。 
第2巻 1780年 刊行 売春、性病、妊娠中絶、捨て子 を扱った
第3巻  1783年    食餌 衣服 移住の衛生  について
第4巻  1788年    事故、犯罪、の発生と予防
第5巻           屍体処理

上からの改革を思考した。ルソーに反対した。 国家を舞台としたが、特定の国家に忠誠することはなかった。~国境なき衛生学者

9、医学の中の公衆衛生~フランクとルソー

フランク~民衆の上にまとめて作用する原因は、民衆の上に行われなければならない。~国家が民衆に命令し、禁止することにより、健康は保てる。(パターナリズム)

その保たれた健康は国家に奉仕させられる。

ルソー~民衆の自発性を尊重する。 原始人は健康で強いが、文明が人を弱くした。

Ⅹ、進歩の世紀の医師と民衆

1、パリの病院医学

①ジャン・ニコラ・コルヴィザール~患者の症状と器官の変化を学んだ。1806年「心臓・大血管の病気と気質的病変」刊行

②フィリップ・ピネル~1798年「哲学的疾病論」刊行 病人をみず、病気をみよ。(現在医学への批判と反対。松下)
             独立の病気と見做すには、生理学と解剖学を分類の基礎にすべきだ。

③ザヴィエ・ピシャ~~「諸膜論」(1800年)~組織とは膜である。病気は組織を超えて進むことはない。
              解剖学的変化を知ろうとしたとき、「音」が意味を持った。

④ルネ・テオフィーユ・イアサント・ラエンネック~円筒に巻いた筒を胸に当てた。~聴診器の始まり。「肺、心臓の間接聴診法」

⑤フランソワ・ジョセフ・ヴィクトール・ブッセー~「解剖より生理、局所より全体」を重んじた。  食餌療法と瀉血

2、旧ウィーン学派(18C後半)と新ウィーン学派(19C)

1754年デ・ハエン~「病院を医学の場にする」(入院させて、検査、観察する。) 病気の自然の経過をみまろる「期待療法」

ロキタンスキー~剖検で示される解剖学的変化は、病気の重大さを説明するには足りない。明らかに、器官病のほかに全身病がある。
          その座は全身に偏在する血液だ

ヨセス・スコダ

3、新ドイツ医学の胎動

①ヨハン・ルカス・シェーンライン~臨床面で、医学を自然哲学から自然科学へ向かわせた。

②ヨハネ・ミューラー~理論面で、医学を自然哲学から自然科学へ向かわせた。病理学に顕微鏡を使った最初の人。細胞医学へ(1820年代)パリでは1840年代  

③ユストゥス・フォン・リービッヒ~1840年「農業及び生理学への応用における有機化学」~肥料の理論と応用

④カール・アウグスト・ウンダーリッヒ~体温の曲線を読み、理解することを教えた。病院に限られていた体温計が、開業医、家庭にも入った。
                       治療術が局所医学でなく、全身医学を要求した。(ウィルヒョウと対立)

4、クロード・ベルナールの生理学

1865年「実験医学序説」~肝臓がグリコーゲンを蓄積する。分解すると唐になる。それが胆管ではなく、血液に分泌される。
                 延髄の特定の箇所を穿刺すると、人工的な糖尿病が発生する。クラーレ(毒矢の毒)が運動神経を選択的に麻痺させることを発見。
                 医は科学でもなく、術でもなく、職業である。
                 「内部環境の固定性」と言う考え方を提唱。この考え方は後に米国の生理学者・ウォルター・B・キャノンによって「ホメオスタシス」
                 という概念に発展させた。また、1862年にルイ・パスツールと共に低温殺菌法の実験を行った。(wikipedia)

5、ウィルヒョウとベルリン医学

①ウィルヒョウと「細胞病理学」(1858年)

シュワンが「動物と植物の構造と成長の一致、顕微鏡的研究」発刊~動物、植物の栄養と成長の根源は全て細胞にあることを証明した。

1848年二月革命バリケードに参加、失業。 医学とは社会科学であり、政治とは大きな規模における医学なのだ。

「全ての細胞は細胞から」

病気を人と異質なものとみず、「違った条件下で起こる生理現象」とみたが、その共通事項が細胞である、とした。

白血病の発見者として知られる。(wikipedia)

②生理学者たち

1895年X線発見。

③ベルリンの内科医と外科医たち

外科が内科と同等になった。(解剖学、局在論が医師の常識になった。麻酔、防腐、消毒によって外科への信頼が出来た。

6、病原細菌学の時代

①感染と伝染 ミアスマ(汚染)とコンタギオン(伝染)

伝染物質を認めた(フラカストロ)40日間隔離 パストゥール、コッホの発見はコンタギオンを有力にした。(伝染)

②ゼンメルワイスと産褥熱 ~ウィーン総合病院産科に勤務。今日で言う接触感染の可能性に気づき、産褥熱の予防法として医師のカルキを使用した手洗いを
                  提唱した。消毒法及び院内感染予防のさきがけとされ、「院内感染予防の父」と呼ばれる。

                 助産婦が行う分娩と医師が行う分娩で産褥熱の発生率が10倍も違うことに疑問を持ち研究を始め、目に見えず臭いでしか確認でき
                 ない死体の破片が医師の手に付着していることが原因であると結論した(当時は病原菌などの概念が無かったため、このような理論
                 になった)。彼は自説に基づき脱臭作用のある塩素水で手を洗うことで死体の臭いを取り除くことを実施し、その結果産褥熱による
                 死亡者は激減した。しかし、彼の革新的な主張は学会で受け容れられなかった。(wikipedia)

③ルイ・パストゥール     1854年リールの化学教授。ワインの低温殺菌法   細菌の自然発生説を否定。
                 弱った細菌による穏やかな感染は、病原菌のサイドの攻撃に対して、動物を守る。~免疫 
                 弱められた病毒~vaccines(ワクチン)

                 1861年に『自然発生説の検討』を著し、従来の「生命の自然発生説」を否定した。
                 1862年4月20日、パスツールとクロード・ベルナールは、のちに低温殺菌法(パストリゼーション)として知られる最初の実験を行った。
                 微粒子病がカイコの卵へのノゼマ(Nosema apis)と呼ばれる原生生物の感染であることをつきとめ、微粒子病を防止する道をひらいた。
                 嫌気性菌、つまり空気や酸素なしに増殖する微生物を発見した。

                微生物が病原体である可能性を示唆し。微生物は動物や人間の身体にも感染するという結論に達したパスツールは、スコットランドの
                外科医ジョゼフ・リスターが、外科手術における消毒法を開発するのを助けた。

                弱毒化した微生物を接種することで免疫を得ることができるという発見は、ワクチンの予防接種という、感染症に対する強力な武器を
                供給するものとなった。その後、彼は狂犬病のワクチンも開発した。実は狂犬病の病原体はウィルスであり、彼はその姿をとらえることが
                出来ないまま、犬の体で培養を行い、ワクチンの開発に成功している。(wikipedias)

④ローベルト・コッホ    特定の細菌は常に特定の病気を引き起こす。
                炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者である。純粋培養や染色の方法を改善し、細菌培養法の基礎を確立した。

⑤メチニコフの食細胞説  コッホの弟子たちは、免疫の担い手は血清であり、食細胞はない、とした。1891年「炎症の比較病理学講義」
                 白血球の食菌作用を提唱し、免疫系における先駆的な研究を行ったことで有名である。

⑥エミール・ベーリング    馬に抗毒素を作る。 破傷風治療に応用。

⑦パウル・エーリッヒ    近代化学療法 (梅毒にサルバルサン)

7、外科学の進歩を担った人々

①ジョセフ・リスター~創傷感染を克服。石炭酸  1867年 成果を公表したが、認めるものは少なかった。

②テオドール・ビルロート~吻合の術式(十二指腸と残った胃をつなぐ手術~ビルロート法)  胃の外科医 「一般外科病理・治療術」

8、衛生学、社会衛生学、社会医学

①マックス・ベッテンコーフェル~これらの流行には特異な微生物とそれを産生する土壌が必要だ、

②19Cの社会医学者たち

医学は社会科学である

ウイルヒョウたちの思想と運動~①社会は構成員の健康を守リ、保障する義務がある。②社会と経済の状態は健康と病気に重要な効果を及ぼすのであり、
                   この関係は、科学的研究に委ねられなければならない。③社会は民衆の健康を促進し、病気とたたかうために行動を
                   おこさなければならない。その行動は、医学的、かつ社会的方策を含むべきだ。
                   医学を社会との関係で見ていた。病気と細胞を無条件な関係と見なかった。(結核菌は結核症とは同じではない。政治、
                   社会との関係で発症する。~彼の運動は挫折し、民衆の健康、衛生問題は残った。

20世紀の衛生学の発展は、1848年の運動(二月革命)を継承した。

③ナイチンゲールと国際赤十字社~アンリ・ヂュナン  1858年(種の起源 発行と同じ年)

ⅩⅠ、 西洋医学と日本人

ポルトガル人渡来(1543年)  出島蘭館内開設(1641年) 「解体新書」(1774年) ペリー来航(1853年)

1、ルネサンス、東と西

ヴェサリウス「人体構造論」 コペルニクス「天体の回転について」~1543年~鉄砲伝来

 ガリレオ は同時代人~東西ルネサンス~ヴェサリウス「人体構造論」は日本に伝わらなかった。~200年後に出島に伝わった。(「ターヘル・アナトミア」)

2、鎖国の中の日本医学~解体新書まで

永田読本(本阿弥光悦と同時代の医者)~傷寒論を医の基本いすべし。(当時としては異例のこと)

3、「解体新書」以後

大阪の伏屋素テキ~腎臓に墨汁を流し、すんだ水が出るのを観察|腎臓は尿をこす」(1805年ころ)

4、シーボルト、洪庵、泰然、ポンペ

シーボルト1823年出島に来る。 ジェンナーの牛痘法を試みる。1829年去る。 1959年再来日

1838年 洪庵 敵塾  泰然 和田塾

1849年 ドイツ人モーニッケ  痘苗 ~洪庵は種痘を子供に接種  1858年 神田お玉が池 種痘所設置~漢方医学が凋落するきっかけとなった。

佐藤泰然~順天堂創立

1857年 ポンペ来日

5、イギリス医学かドイツ医学か 

英国人医師ウィリス~鳥羽伏見の戦いで、両軍を治療。麻酔、消毒、手術 など、近代的医療で、人々を引き付けた。

イギリス医学~病院に基礎を置く臨床医学。   ドイツ医学~大学に基礎を置く研究室医学

どちらを採用するかは、民衆の健康ではなく、支配者の立場を有利にするか、で決まった。

6、明治のお雇いドイツ人教師たち

ベルツ在職25周年記念公園~日本人は科学の成果を引き継ぐだけで満足し、その成果を生み出した精神に学ぼうとしない。

7、明治日本の医学こと始め

東大初代病理学教授三浦守治  2代目山極勝三郎~実験用タール癌、胃がん発生論、

ⅩⅡ、戦争の世紀、平和の世紀

1、生理思想の発展~生理学でも病理学でも、20世紀は前世紀に行われた個別的、解析本位の研究に反省が生まれ、全体、
              総合に目が向けられる風教が芽生えた。

パブロフ~条件反射、大脳半球の研究

シェリントン~シナプス

ベイリス、スターリング~ホルモンの発見 毛細血管壁が半透膜である

キャノン~X線を 生理学に利用 ホメオタシス概念  交感神経、副交感神経、副腎系を調節活動の担い手と見做した。

ルネ・ヂュポス~自然治癒力はホメオタシスより複雑、かつ強力。ホメオタシスは神経、筋の機能変化だが、自然治癒力は結合組織の反応(例えば炎症)
          や組織の再生、免疫の獲得を伴う、より持続的な修復過程であるからである。

セリエ~ストレス学説

2、内分泌学の進歩

ホルモン~スターリング

1921年~インスリンの分離  犬の膵臓を除去すると糖尿病になった。

バンティック~膵臓エキス注射で糖尿病の少年を救った。

副腎皮質ホルモン、性ホルモン~受胎調整法の発展を促した。

3、栄養とビタミン

ビタミンの研究ははじめ 、支持者が少なかった。

高木兼寛~麦飯で脚気を防ぐ。 陸軍は東大とともに病原菌説を守り、犠牲を出した。

1906年 アメリカのホプキンスは三大栄養素とともに、必須栄養素因子の観念を発展させた。1912年ポーランドのフンクが「ビタミン」と命名。
(1747年英国のリンドが壊血病にある栄養素が必要だ、と指摘していた。~ビタミンB)

1922年~ビタミンD  1947年~ビタミン12

4、病理思想の動向

生体は成分の和以上のものだ。~「解剖学的思考、つまり体の一部への病気の局在」に拘泥せず、神経系やホルモン系による統合作用や、体液の役割
                     遺伝や体質を重視する考え方。」

ホップ~あらゆる生命が、心的・肉体的な統一体であるように、病気もまた、心的・肉体的な現象である。

第二次大戦後のアメリカ病理学の特徴~①臨床分科の発展と結びついた器官別病理学が成立した。(心臓・血管病理学、神経病理学、皮膚病理学等々)
                         ②剖検の位置が低下し、代わりに手術材料を対象とする生検が、病理学者の日常業務となった。
                          (解剖学と外科が強固に結合した。)
                         ③免疫学や生化学と結びついた実験病理学が中心となった。

5、感染と人間

重点は微生物と生体との交渉におかれた。~①薬の開発(化学療法) ②免疫メカニズムの解明 (免疫療法)

1929年~フレミング(英国) ペニシリン 対戦中にアメリカで工業化に成功

1944年~ワックスマン  ストレプトマイシン

20世紀後半~抗生物質に無効な菌が増加~①耐性、②副腎皮質ホルモンやHIV感染によって、体が本来の抗感染作用を失った。

1898年 オランダ バイヤインク タバコモザイク病の病原菌が細菌ろ過装置を通過することを発見~ウイルス

6、免疫学の進展

1930年代~組織培養、電子顕微鏡でウイルスの正体が明らかになった。~ウイルスワクチンの開発。

1945年~リンパ球が免疫機能を有することが判明。

免疫系~細胞性免疫と液性免疫の二系統がる リンパ球にT,Bがある。

1981年~VHI発見

アレルギー~ジフテリア治療に馬の免疫血清を注射~アレルギー起こる。

7、生化学と分子生物学

1920~50年に架けてたんぱく質の結晶化、ペプチドの合成、クロマトグラフィー技術の進歩で、酵素の本質が解明されるようになった。

1955年 サンガー インスリンのアミノ酸配列を決定

1869年~ミーシャーが既にDNA を発見していた。

1952年 ワトソン、クリック 二重らせん構造を決定 

8、外科の歩み

アルクシス・カレン~血管縫合と器官移植 「人間・この未知なる物」(医学哲学の古典) 1921年

1950年代 心臓カテーテル法 心肺装置の開発~心臓手術が可能に

1901年~血液型の発見

1960年代~腎臓移植 免疫抑制剤の研究

1969年 バーナード 心臓移植

9、環境汚染の進行

1962年 沈黙の春

10、臨床医学への反省

1976年アイヴァン・イリッチ「脱病院化社会」~「医療機構そのものが健康に対する主要な脅威となっている。専門家が医療を支配することによる破壊的影響は
                            いまや流行病の規模になった。医原病というのがその流行病の名前だ。

マキューン~「ヨーロッパでは、ストレプトマイシンの100年も前から、結核死亡率はほぼ一定して減少していた。ジフテリア、猩紅熱、百日咳などの
小児病による死亡率の減少は、予防注射や抗生物質よりも、良い栄養、衛生施設、一般的な生活状態の改善のためである。」

ヘルシンキ宣言~完全な説明と自由意志による同意

<コメント>

著者晩年の著。日本人による医学の通史はこれ以外に小川 鼎三著の「医学の歴史」があるようです。現代西洋医学がどのようにして
成立してきたか、年代的に知りたかったので、読んでみました。超ミネラル水を広めるのに何の関係があるのか、無駄な時間だ、というためらいもありましたが、
物語風的なところもあり、なかなか面白かった。

ヒポクラテスの時代から、病気は全身病か、局所病か、の考え方があり、18世紀中葉に近代西洋医学が効力を発揮しだすまでは、前者の考えが主流を占めていた。
しかし、18世紀中葉にそれが逆転した。現在、医師を批判するのに「病気を診ずに、病人をみよ。」といいますが。当時は「病人ではなく、
病気を見よ。」と言うことが強調されたのですね。現在の医師が病人を診ずに、病気を見るようになったのは、長い歴史があったのですね。
その後も両派の論争は継続され、現在は弊店も指示する「統合医療」が提唱されています。このようなことを考えると、私たちは安易に現代西洋医学批判を
口にしてはいけないのだと思います。可能な限り、知識と思考を積み重ねてゆく必要があるのではないでしょうか。

著者はアカデニズムの人ですから、やむおえないのですが、ハーネマンを初めとする、「異端的」医学についても触れることで、公正な「医学史」になったことでしょう。
おそらく著者はその名前さえ知らなかったのかもしれませんが。

50年後に書かれる「医学史」には「超ミネラル水の歴史」も書き添えられることでしょう。

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