超ミネラル水ショップ   読書ノート   水野肇著  「誰も書かなかった厚生省」                               

                 
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誰も書かなかった厚生省   水野肇著  2005年 223P

プロローグ 社会保障切捨て政策

①宰相に一番近い椅子

②衣食足りてこそ健康願望

1961年  国民皆保険  皆年金 自民党は社会保障を充実させた

③社会保障政策に無関心な小泉内閣

医療費をドクター・フィーとホスピタル・フィーに分離 前者は健康保険、後者は自己負担にする。

医療技術に差額を認め、差額部分を自己負担とする。

アメリカのようになる。

Ⅰ、結核対策と厚生省

①亡国病を撲滅せよ

1938年 内務省から独立

結核対策~早期発見と隔離

これがその後の癌検診に受け継がれる。

公衆衛生対策は昭和10年代にあり、その後も受け継がれる。

②特効薬ストマイ神話の真相

欧州では結核が下火になっていた。~理由:栄養状態がよくなった。

日本で結核患者が減り始めたのは昭和28年(1951年)から。30年代半ばに激減。

その理由をストマイ効果と信じられたが、本当の理由は食生活の改善による。(ロックフェラー研究所 デュボス)

③がん検診に伝わる統制主義

種痘が医学が科学として認められた最初のエポック。其れまでは科学と認められなかった。

公衆衛生で日本が際立っていたのは、早期発見、隔離の徹底から。そかし、隔離はハンセン病患者の隔離、と言う弊害を生んだ。

空路の発達で、水際作戦は不可能になった。

日本は民主主義になったが、「一億一心」「単一民族主義」の傾向を有することは、留意する必要あり。

がん治療はお手上げだった。

早期発見は良い(必ずしも良いとは限らない~近藤医師の考え)

集団検診~病人を排除する思想~ナチの思想に通じる。

ⅡGHQの抜本改革

①サムス准将のDDT改革

  ①これまでの衛生警察と呼ばれていた公衆衛生を民主的な衛生組織に改革、その中軸に「保健所」を据えた。
  ②厚生省の組織そのものを改革し、それまでの内務官僚の支配に終止符を打ち、新しく技官(医師)官僚を登用し、多数の技官ポストを設置した。
  ③終戦直後の混乱や多数の引き揚げ者の持ち込んだ多くの伝染病と取り組み、解決した(これがDDT革命と呼ばれている)。
  ④看護婦、保健婦、助産婦(いまの看護師、保健師、助産師)などのコメディカルの人たちの職業を確立・法制化し、それまでの医師中心の医療から、
    医療のチームづくりへの道をつけた。
  ⑤サムスは医療、社会福祉、社会保障は三者同一に充実させていくべきだとの持論から、財政的に全体をコントロールすべきでないという意見の持ち主で、
   それを実行しようとした。これは、後年の日本の国民皆年金、皆保険に思想的にも奇しくもつながっている。
 

サムスにとって、うまくいかなかったものもある。日本における医薬分業がそれであるが、総じて失敗した問題は少なかったのではないか。
 

②保健所制度の改編

日本には公衆衛生を実践するためのシステムもプログラムもないばかりか、その根幹になる医学を実践的に応用し、展開していく仕組みも組織もない
ということだった。

 明治以来、日本の衛生行政は、警察が管轄していた。別名「衛生警察」とも呼ばれていた。

昭和13年、保険所法成立、50の保険所が設立された。

戦後改革~市町村には公衆衛生を担う力がない。~厚生省→見衛生部→保険所のルートで実施。

③技官重視の厚生省人事。

厚生省内~「衛生局」「医療局」「予防局」「社会局」を設置(GHQ指令)

県~「衛生部」「厚生部」を設置(GHQ指令)

医務局、予防局、公衆保険局を設置  局長に技官(医師)を任命した)~科学技術が行政に反映されていない、と言うサムスの指摘を反映した人事。

④サムスと武見太郎の確執

サムスは医薬分業を行おうとした。

武見は潜在的技術料だ、としてサムスに反対した。(日本の社会システムの中には、このようなわけの解らない屁理屈が多くある。松下記)

サムスは武見を厚生省に告発して、彼を解任させた。

その後来日したアメリカの調査団は、日本の薬剤師の能力からして、医薬分業は時期尚早として、認めた。

公衆衛生行政をしいたのはサムスである。

Ⅲ社会保障元年の教訓

①画期的だった皆保険と皆年金(1961年実施)

②社会党が政権政党になれなかった理由

保守勢力が政権を握っている国で、社会保障を推進した国は日本だけであった。

厚生省は肥大化してゆく。

③健康保険不要論

武見が厚生省に不信感を抱いていた理由は、官僚に社会主義者がいる、と思ったから。

経済が停滞した場合は、健康保険、年金保険は機能しないからといって、国民負担を強行するのは見当違いだ。

経済が不安定の今こそ、国民に安心感を与える社会保障を崩すべきでない。

Ⅳ頻発する薬害事件

①戦前になかった薬害事件。

②厚生省と製薬会社の関係

薬害事件多発の原因~副作用報告システムの不十分さまたは、それが機能していない。

日本の特殊事情~厚生省が製薬会社に物が言えない。~天下り

一概に天下りが悪いわけではない(だから、天下りはなくならないのだ~松下記)

通産省、大蔵省は企業を監督する、と言うより、保護育成の色合いが強い。

昭和1955年以降に抗生物質が出回る。それ以前は利く薬もなく、薬害もなかった。

サリドマイド事件は1960年前後

経済課~企業より~業界と付き合うのが仕事 その課長は天下りしているOBの機嫌を損ねないこと。

HIV事件~ミドリ十字の社長、松下健蔵は厚生省薬務局長であった。

③HIV事件が残したもの。

1808人の患者(平成9ねん7月5日厚生省調べ)

製薬会社、厚生省、医師の「複合過失」刑事裁判 被告人が死亡し、裁判が停止

民事裁判は和解が成立。

過去の医療事件を、今の医療常識で裁くのが妥当かどうか?

官僚は学者を組織して物事を決め、自ら責任を取らない。その学者は自らの考えに近い人を任命する。

安部英帝京大学副学長は一審で無罪、2審で心神喪失状態とみなされ、裁判打ち切り。(平成17年死去)

「複合過失」ははっきりしないまま、終わった。

④医師の無知が招く薬害

厚生省には「薬害は製薬企業の問題であって、製薬企業を厳重に指導すればいい」と言う考えがあるが

これは、「自動車事故をなくすには、自動車を作らなければよい」と同じ考えである。

Ⅴ医師の薬害責任

①スモン事件の特異性

日本薬局方に普通薬として収録されていた「キノホルム」を医師が大量に投与したために起きた事件。

②倍増されていった投与量

30年代のはじめから、腸疾患の治療中に原因不明の神経炎症状、下半身麻痺が散発し、44年に患者数が最高に達した。

1970年新潟大学の椿忠雄教授が、キノホルムが原因と主張。

S47年(1972年)までに11007人が認定される。

キノホルムは1899年に誕生した古典的薬。火傷や潰瘍治療。後に、腸管内アメーバー治療に有効と判明。

大量投与が発生の原因。

③薬務局長の更迭

1971年、2人の患者が、製薬会社、国を提訴。

④スモンの和解交渉

和解は実質的には敗北。省内では「徹底的に戦え」が雰囲気。

製薬メーカ22社、大蔵省、患者代表、弁護士、と和解とその金額に関して了解を取り付けた。(中野薬務局長)

田辺製薬の役員が反対。

1979年和解成立。

⑤不問にされた医師たちの責任。

「どうしてそんなに大量のキノホルムを投与するのか」の質問に「日本薬局方の薬だから」と答えた医師がいた。当時日本薬局方の投与量に関係なく副作用がない

と信じられていた。スモン病は単なる薬害ではなく、医療過誤ではないか?当然医師の責任を問われるべきだが、話題にさえならなかった。

中野の見解~スモン病の認定には、医師のキノホルム投与の処方書が必要であった。医師の責任を追及すれば、医師はその処方箋を書かないので

         その責任は問わないことにした。

現在は当時以上に副作用の強い薬が大量に出回っている。中には安易に量を増やす医師が少なからずいる。医師はもっと薬のことを勉強すべし。

スモン裁判で、裁判所側が付帯事項でも良いから、医師の責任を指摘していたら、以後の薬害事件は違った様相を見せていたろう。

Ⅵ高齢化社会の医療費

①高度成長経済が吸収してきた赤字

1927年 日本発の健康保険誕生。対象はブルーカラーのみ

1938年自営業者、農民を対象とした国民健康保険

1961年  皆保険。

労組側 支払い側(事業主) 学識者の3者は負担増反対で一致。国庫負担増大となったが、経済成長で其れは可能であった。昭和末までは医療費抑制は話題にならなかった。

社会主義的制度

②医療費を襲う二重苦

高齢者の医療費は若年者の其れより5倍かかる。

有望な薬の発見確立~2500に1つ 1剤につき250億円。

日本は年間1兆円づつ医療費は増加している。

③点数票騒動記

点数単価方式

新しい医療方法は点数が高い。普及するにつれて低くなる。

人工透析は当初健康保険に採用されなかった。昭和40年代後半に適用。1回4500点(4万5千円) 週3回、年に650万円

現在は1回1万円。

単価は経済容共によって異なる。インフレ~高い  デフレ~低い

厚生省は点数で医療費をコントロールしてきた。

④薬価基準は利ザヤの温床

薬の公定価格

・薬価基準に収載されていないと使えない。

・薬価基準で決められている値段で支払われる。

かなりいい加減に決められる。

経済課で決められるのは建前、実際は医療かで決められる。

「投薬即医療」が1874年まで続く。その傾向が今も続く。

薬価差益~1990年代初め  1兆3000億円   現在では5000億円位。

自由価格にすべき。

Ⅶ、見直される社会保障制度

①ポスト経済成長時代の医療制度

武見太郎が会長であった時代(s33年~58年)

欲張り村の村長。 高度経済成長時代だったので、武見の要求を呑むことが出来た。医師会は変わりに政治献金と集票で自民党に応えた。

その終焉と共に、武見は死んだ。

ポスト経済成長時代の先進国の最大のテーマの一つが医療費対策。

②社会保障が許される人口規模。

旧人口問題研究所が人口予測を間違えた。出生率の予想はほとんど」当たらなかった。~社会保障制度全体の見通りを誤らせた。

精勤寿命が延びなければ、認知症は現在ほど深刻にならなかった。死ななくなったので、認知症は激増した。

30年後に100歳以上の人口は100万人を超える。その9割が認知症である。~大変な時代が来る。

③厚生事務次官吉村仁。

1980年代最初  医療費亡国論

④医療費亡国論

医療費の伸び率は経済成長率以下に抑える。  

Ⅷ、審議会制度の限界。

①「中医協政治部長」の逮捕

②腐敗を招く中医協の答申システム

医療行政は審議会にかけられるが、そのまま決定されることはないが、医療費だけは「中医協」で決まったら、そのまま閣議決定される。~問題である。

③ 3者構成の不均衡

学識経験者の人数が8人から4人に減らされた。

組織疲労

国ばかりか、多くの企業で社会保障費を負担できなくなっている。

④中医協は必要か

医療課が医療報酬算定の知識を多く持っているので、中医協は不要である。

係数だけを考えるのであれば、医療課に任せても心配ない。但し、国会審議を行う。

点数制を解りやすくする。診療側には医師会だけでなく、病院の代表も参加させる。

Ⅸ、老人医療に必要なもの

①見過ごされた高齢化社会の到来

65歳以上の人が、全人口の7%を超えた社会。

平均寿命の伸びが、高齢化社会になることを指摘した者はいなかった。

②病院と家庭をつなぐ老人保健施設

高齢化対策の初め~1969年東京都の美濃部知事が行った70歳以上の老人医療無料化であった。

1981年財源からみて大問題となり、廃止された。

高齢者の病床占有、 延命だけの治療  社会的入院

「中間施設問題等懇談会」  病院と家庭の中間の医療施設 病院と特別養護老人ホーム以外の施設

特別養護老人ホームは社会福祉事務所の承認が必要。介護と言うより、「お世話」するだけ。死ぬまで退院しない。

現在は介護の必要が高い人を優先的に入院させる。

介護老人保健施設~家庭復帰を目的の施設

日本の老人問題は、老人が多くなって医療費負担が増えるので、何か対策はないか、と言う発想で始まった。そこには老人の健康を考える視点に欠ける。

「老人保険審議会」(S58年)  老人病の専門家は一人しかいないと言う異常さ。そもそも、医師はこのほかに医師会の常務理事と2人しかいなかった。

著者も委員であった。保険についての末梢的な議論が殆どで、老人の健康についての議論はなかった。

「厚生省ではなく、保険証に名前を変更したらどうだ」といったら、ある幹部は「これが厚生省の伝統です」と応えた。旧内務省の体質が残っているためだ。

国民の健康は自分で守るしかない。国は助けてくれない。

役人は面子を立てたり、権益を守ること以外に考えていない。

③目指すは寝たきりゼロ。

山口委員長~リハビリの出前 寝たきり老人が半減。

スウェーデンの「グループホーム」での認知症治療は提案したが、時期尚早扱い。

「退所後の生活を指導する」~前向きで実際に老人に貢献できた。

④「病院冬の時代」での成功

S61年、老人保健施設制度が創設された。

入所者100人につき、医師1人(101~199人につき、医師2人)

所長は医師である必要があるか。これを認めなければ、医師会がそっぽを向く。

原則医師であるが、例外も認めることとした。

利益率は10%程度になるよう仕組んだ

1年のモデル事業を経て、S63年に本格スタート。28万床を想定した。

Ⅹ 介護保険をめぐる疑問。

①老人医療を拒否した医師たち。

1962年東大に全国で初めて老年病学教室が誕生。

欧米の「ナーシング・ホーム」 医師の常駐はない看護師だけで、家庭に復帰するまでのリハビリを行う。

「老健」の普及に努めるが、医師会の幹部は「医学で一段落ちる老人医療はやりたくない」と言う人が多い。

国立病院は戦後旧軍隊の病院から引き継がれた。

②事故負担増の受診抑制効果

「老健」は社会に定着したが、老人たちに役立っていない。その理由は、財政対策に偏り過ぎているからである。

自己負担を増やしても、受診する人が減るのは1年くらいで、元に戻る。本来不要で受診することはなく、必要があって受診してりる。

③「医療費増」についての疑問。

80年代から2000年代にかけてのテーマ~介護保険

「健康保険を介護に適用して不都合があるか」と言う議論は一切なかった。役人はその議論は老健審にはなじまない、と言った。

医療費が急増し始めたので、介護部分を他に移せ、と言う要請があった。(体のいい医療保険の値上げである。)

厚生省は医療費増加を印象付けるために、情報操作をしている。

厚生省が予測値を操作していたとしたら、由々しき問題である。

④介護保険は新たな負担か?

XⅠ 厚生省の失墜

①介護保険の5年後の見通し。

5年後に見直す、と言う条文を法律に挿入させた。

②高齢化で増加する認知症患者。

脳血管障害型認知症より、アルツハイマー型認知症が多くなった(4:6)

2025年には50万人を超える。

③民間活力に求められるモラル。

一般に民間活力を歓迎するムードがあった。

小泉内閣の誕生で「経済活力諮問会議」が力を持つようになった。

厚生省の役人は歓迎したが、医療関係者を代表する委員は、民間には悪いやつがいるから、反対した。

5年間でそれが判明したので、事業内容の定期的点検など、モラル維持対策がとられた。

④3施設統合と国税の壁

老人穂編施設(医療法人)、特別養護老人ホーム(社会福祉法人) 病院の病床型病床群(医療法人) の統合問題は以前から指摘されているが、実現しない。

仕事の内容は3施設とも老人介護で変わらない。

特別養護老人ホームでは時々、集団のインフルエンザは起きる。医師がいるか射ないかの差。法人税は非課税。2施設は課税。

⑤岡光事件の伏線。

1996年発覚 収賄罪

⑥下された実刑判決

2003年最高裁で実刑。現職次官の収賄罪は初めて。

⑦尾を引く事件の後遺症

XⅡ 社会保険庁の特異性

①力がなくても務まるポスト。

②社会保険庁の特異な組織事情

国民皆年金、皆保険の事務方として厚生省の外局として発足。

省の伝統は明治から派生。

③「保険一家」とキャリアたち

④始末に負えない残骸か

XⅢ、開業医制度をめぐる確執。

①50年に及んだ確執

開業医制度~家庭医機能を持った医師の育成~既に法律は成立していたが、省令、通達を通して一気に解決した。

厚生省が最後に決めたことは

「大学医学部を卒業して国家試験に合格した医師は、二年間、家庭医としての仕事を十分に果たすことを目的として、
内科、一般外科、小児内科、産科、救急、公衆衛生等の各科をローテートして訓練を受けなければならない。専門医を目指す場合でも、
この家庭医としてのコースを修めたのちに、大学医学部の教室等に入局する」

2004年4月から実施

現在、大学に残るものが7割から5割に減ったのに危機感を持った病院長、医学部長会議が反対している~大学のエゴか?

②ファミリードクターとかかりつけ医

健康保険証はどの病院でも使える

イギリスはファミリードクターだけに仕える(大学病院では全額自己負担、ファミリードクターの紹介状がある場合はOK)

簡単な病気か重い病気かを判断できる。市民は登録する。登録者数うに対し報酬がある。

登録者が病気にならなければよいので、公衆衛生に力をいれる。病気になれば忙しいだけになる。

ヨーロッパでのルールになっている。90%はファミリードクターの所で解決する。

日本の場合は重い病気の場合は、病院を求めて右往左往している。

③医局制度のゆがみ

医局では全体的な医療技術を習得するのではなく、所属医局の教授の専門分野をいきなり学ぶことになる。限られた分野の分野の専門医になる。

数年で医局の勢力圏の病院に派遣される。

教授は17年に一人しかなれない。教授にも専門医にもなれなかったものが開業医になる。

日本の医学部はプライマリーケアーさえ殆ど講座さえない。

厚生省がこの問題と取り組んだのは1975年ころから。

アメリカは「家庭医と言う名の専門医を養成し、成功した。

家庭医制度に日本医師会が反対した。

④日本医師会が反対した2つの理由。

武見~医療の医療反対

村瀬(1990年代に日医会長)~「家庭医」と言う言葉に反対  「かかりつけ医」に賛成。日本の開業医は「家庭医」に実力がない。医師免許の更新の問題がおきて、

日医会長の対場を維持できなくなる。

⑤地域に密着した開業の育成

往診をやめた理由~皆保険で忙しくなった。医療の進歩に開業医はついてゆけないことを患者は見破り、行かなくなった。

厚生省は家庭医のカリキュラムを考え、審議会を通過させた。

現在残っている開業医の教育は、日医か実行する以外にない。

XⅣ 岐路に立つ戦後医療制度。

①社会保障が迎えている危機

②総理に課された説明責任

③患者中心の医療

1990の終わり頃から、患者の声に耳を傾けよう、と言う病院が少しずつで出した。

2002年医療費と薬価を2.7%引き下げた。それでも収入が伸びた病院は患者中心に経営をかえた病院であった。

④健康寿命を生きる

生活習慣病の多くは、糖尿病と関係している。心臓病は糖尿病と関係している。

糖尿病医療費は年間2兆円、内8000億円は糖尿病が原因の腎病による人工透析

日本人は「節約遺伝子」をもつ。飢餓には強いが、飽食に弱い。

■エピローグ  厚生省はどこに向かうのか。

日本では医療と年金を分離して考える傾向がありが、本来は一緒に考えるべきもの。(縦割り行政の弊害)

小泉内閣は公助、共助でなく、自助を自明として全てを財務省に丸投げした。

財務省は2002年総医療費を削減し、医療費3割負担をさせた。しかし、医療費は年々1兆円づつ増えている。(2004年32兆円)

増税や保険料の引き上げは不可避(はたしてそうか?松下記)

国民負担率~日本35% スウェーデン75%(この数字はどこかへん。まやかしはないだろうか検証してみるべし。松下記)

政府えの信頼度はスウェーデンは高い。

著者が厚生省の審議会にいたのは昭和40年代であったが、そのころは能吏と言われた官僚が多くいたが、現在は省全体が沈滞ムードである。

「自分たちは国の為に働いている」と言う意識が感じられ、頼もしく思った。(著者自身が審議会の委員であり、官僚のめがねにかなっただけでであり、

単なる相互の褒め合いに過ぎない。何故そんな優秀な官僚が、数十年でだめになったか、が問題。本来ダメだったに過ぎないのではないか。

同省の内情はする由もないが、明治維新から、先の大戦、そして戦後史をみれば、それは歴然としている。日本の官僚は優秀だ、は幻想に過ぎない。松下記)

2年で部署が変わり出世するコースの他に、長年一つのテーマを追求する「政策プランナー」を育成すべし。

あとがき

<コメント>

著者は現在の大枠の中での思考の人のようです。(当然ですが) ただ、全体として批判的理性は有しいるようです。是非、その批判的理性を活用して

もう一歩先を思考して欲しいものです。長年厚生省の審議委員を務めていたらしく、外部からうかがい知れない情報が書かれている。

多くの官僚と接するのが仕事でしたから、官僚批判は極限定的で、日本の官僚は全体として優秀だ、と言う認識があるようです。

ここを脱しない限り医療そのものを変革する思考へとはいたらないでしょう。著者の年齢はから考え、其れは不可能のようです。

超ミネラル水の効能を知った時、素直に受け入れるでしょうか?

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