超ミネラル水ショップ   読書ノート   誰も書かなかった日本医師会  水野肇著                              

                 
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水野肇著  誰も書かなかった日本医師会    220p

プロローグ 日本医師会の50年

①一目置かれた圧力団体「日本医師会」

会員数15万人 年間予算160億円 160人の事務職員(163000人 組織率60%  2006年  wikidpedia)

A1会員~民間病院の診療所の主宰者(オーナー)   A2会員~病院の院長 部長 (医師会の医療保険加入者)  B会員~医療行政従事者 基礎研究者

日本医師会政治連盟

1947年発足

②小選挙区で発揮される医師会の力

自民党を推薦

③一貫して反抗厚生省の姿勢

一目置かれるようになったのはS30年代から

日本の組織は親睦団体かさもなくば、所管官庁に認められようとする。

武見の後は厚生省よりの会長が続いたが、現会長坪井は反抗厚生省である。

④会長一人とその他大勢の組織

医師は自意識が強い~わがまま

医師会は会長のワンマンコントロールしやすい組織である。

⑤武見の強烈なリーダーシップ

厚生省に反対し、最後は自民党が調整した。

Ⅰ、戦後医療行政の始まり~武見時代への幕開け

①吉田内閣誕生の舞台裏

吉田は武見の義理のは伯父

②武見を支えた牧野・吉田の政治人脈。

③武見の説得で和田博雄が農相に

④吉田茂にかわいがられた和田

⑤戦前から旧態依然の医療界

⑥武見、日本医師会副会長に就任

当時の医師会(S24年頃)はお金のことしか考えなかった。

会長田宮猛雄。しかし、3月半で崩壊。GHQと医薬分業をめぐって衝突したため。

⑦GHQと医薬分業をめぐって衝突。

医薬分業~医師が処方箋を書き、患者はその処方箋を調剤薬局に持ってゆき調合してもらう仕組み

当時医師は医薬分業では飯が食えないとして、反対した。

GHQの公開質問状で、武見らは辞職。

⑧残された薬価差益の問題

医薬分業法~1951年成立。1956年実施。1955年改正でこの法律は骨抜きにされる。(患者が必要ないと申し出たり、医師が必要ないと判断した場合は

処方箋を発行しなくても良い。)

薬価基準は公定価格  銘柄別で15000ある。多すぎる。実際にはこの価格より安く買い叩いて、病院は利ざやをえている。

一次はこの薬価差益は1兆3000億円あったが、現在は数千億円になっている。~漢方時代の「投薬即治療」のなごりと医薬分業がなかったため。

⑨池田蔵相の一言で決まった医師優遇税制

1957年武見が会長に、以来1982年まで。

70%を必要経費とする(30%課税)  1979年まで続く。

かっては健康保険を利用する人は、貧乏人に見られたが、それが当たり前になった。(労働運動活発。国民全体が貧乏になった。)

過っての医師は、大半が地主階級などの富裕階級の出身者であった。医師は料金なしでも暮らせた。

戦後の農地改革、資産課税は富裕階層に打撃を与えた為、自由診療はなくなり皆健康保険診療が大半になった。(今の格差社会が進めば、混合医療が開始され

自由診療が普及するようになるかも。既に銀座などの美容整形病院では、自由診療病院が出来ていると言う。松下記)

昭和20年代の医師会は、医師の賃上げする闘争組織とみなされていた。

医師優遇税制は当時おかしいと思う人が多かったが、医師会では「これで儲かる」と歓迎した。

武見は吉田亭でも個人的な池田大蔵大臣との交渉に勝利したものと自負した。大蔵官僚の反対を池田が押さえ込んだ。これが後の反日医感情になる。

この税制は、税の専門家では「悪例となる。」と不評であった。

昭和54年に改正される。大蔵官僚は、この時自らの過ちを認めなかった。官僚は過ちを認めないものだ。

⑩厚生省が武見の勧告書を改ざん。

役人は文の改ざんをよくやる。1文字変えただけで意味が全く違うことがあり、このテクニックに官僚は秀でている。

審議会は文章を役人に任せることが多いので、役人にひねられることが多々ある。審議会委員は筆の立つものは少ない。

役人は好みの人しか委員に任命しいので、初めから結論ありきになる。

⑪役人は「夢とロマンと反省のない人」

著者が長年役人と付き合った感じることは、役人は「国の為」「国民の為」ではなく「役所の為」と考える。役所と言うより、局への帰属意識が強い。

役人はこのことに無自覚である。

⑫医者は”名誉ある自由人”

武見が反厚生省になった理由は、医療の国営化 の動きに反感を抱いたからだ。

医師の技術料を算定することは難しい。

フランスでは医師の19%は初診料や手術料はいくらとっても良い。この19%の医師を選定するのはフランス医師会。公定料金と実際の料金の差額は患者負担。

2年もたてば、実に合理的な差額金となるという。

武見診療所の入り口に掲げられた。 次の方はすぐ診ます。 1、特に苦しい方 

                                     2、現職国務大臣

                                     3、80歳以上の高齢な方

                                     4、煎じ職務にある軍人

Ⅱ、反官僚、反自民~武見政権の樹立と安定

①戦後の医療政策と空白の時代

1957年武見は会長になる。(52歳)

戦後すぐは、医師も一般人より多少良い程度に貧乏であった。

医師会は賃上げ圧力団体であった。

厚生省の一部には、イギリスの医療制度に学ぶべし、と言う勢力があり、医療費国営感があった。

自民党には社会保障政策はなく、医療政策の空白期間であった。

1961年の皆保険の導入後、自民党は社会保障について考え始めた。

医学そのものはアメリカに20年遅れている、と言われた。(昭和10年代以降、戦争によって、欧米から医学情報が入らなくなったため。)

戦時中の医学教育の短縮は、レベルを更に押し下げた。

1952年頃、米軍から「ペニシリン」効果を見せ付けられた。驚いた。

②満を持しての会長就任

S20年代の医学は臨床検査発達の胎動期であり、次の臨床検査時代を予告するような生化学の発達の時代でもあった。

医学が遅れを取り戻そうと努力を開始したのは占領政策が終わってからである。

S52年、”臨床検査時代の牙城”国家公務員共済組合の「虎ノ門病院」を見学した時の著者の驚きは今でも忘れない。

このような時代に武見は会長になった。

S30年3月号「中央公論」に書いた「老人の増加に如何対処するか」は高齢化社会を予見しており、今でも一読の価値あり。

「学問は官僚に統制されてはいけない。自由社会に生きる医師の集団である医師会は責任を持つべきだ」

③医師の自由を侵す「二重指定制度」

保険診療を行う医師は、保険診療登録をするほかに、病院も保険医療機関の指定を知事から受けること。薬剤師と薬局も同じ。

自宅以外に診療所や病院勤務をする医師は、自宅では保険診療は出来ない。

④医療国営化の反発

終戦直後には厚生省にも「医療国営化」の勢力があったが、S30年代にはその力はなくなった。

欧州では革新政党が政権に就いたとき、社会保障制度が前進し、保守政党の場合は停滞した。日本では保守である自民党がこの革新性策を先取りして実施した。

(自民長期政権の理由の一つ)

⑤厄介な「甲乙二表問題」

「点数単価制」は物価変動を単価で、医療技術の進歩を点数で評価しようとするもの。

厚生省案と日医案が対立。甲乙二表は併記され、その後も続いたか、現在はその差はなくなり、有名無実化している。

⑥医療のわかる議員を作ろう。

⑦戦うことで組織を強くした”けんか太郎”

「武見は鋭いし、勘もさえている。しかし、それ以上に良く勉強している。」

自分たちで意見を討議し、戦おうとしたのは武見になってからだ。1963年頃に組織内に確固とした基盤を確立した。

S39年の吉田富三との会長選挙に大差で勝つ。吉田が学者出資であったことが原因ではなく、彼が古きよき時代に医療会を戻すことを目指したため、

守旧派とみなされたのが、吉田の敗因である。武見自身は皆保険を嫌っていたが、時代の流れとして、容認した。武見の優れたところ。

⑧官僚統制の遺物、「制限診療」

制限医療~病気ごとに薬の使用量や治療指針が決められ、その範囲でしか治療できない制度 例~抗生物質の私用基準 結核の治療方針

       医師の裁量幅がない。このような馬鹿なことはS30年頃なくなった。原因は戦時中の統制経済と戦後すぐの極端な貧困にあり、

       以後厚生官僚が医療をコントロールするため(医療費抑制)に温存された。日医はこの撤廃の為に戦った。武見は人道問題として

       戦った。武見は厚生省を見切り、自民党と交渉した。S36年2月19日に「一斉休診」当日は日曜日で、当時は医師は日曜日も

       働いていた。医療従業員は、日曜日は休みたい、と思っていたので、医師との共闘は成功した。制限医療撤廃はスジ論として正しかったが

       当時の医師は、収入の増加になる、と言ってストに入った。収入が減る、と言って参加しない医師も多くいた。

⑨医者の本音は医療費値上げ

自民党との合意~1、学会で認められた新薬は簡素な手続きで保険に採用する。

           2、結核、精神病などの治療指針は患者の個性を尊重して弾力的にする。

           3、医療機関や検査などの種類、使用回数に幅を持たせる。

           4、歯科の補填などの制限を緩める。

ついで、10%以上の値上げを約束させた。

厚生大臣が約束を反故にした。

⑩田中角栄政調会長からの白紙委任状

「~            右により総辞退は行わない。」とだけ書いた委任状を武見は受け取った。そこの次のように書き込んだ。

       1、医療保険制度の抜本的改正

       2、医学教育と研究の向上と国民福祉の結合。

       3、医師と患者の人間関係に基づく自由の確保

       4、自由経済社会における診療報酬制度の確立。

抽象的表現は、武見を信頼して白紙委任状を提出した田中に対する配慮であった。

制限医療の撤廃は日医の歴史に残った。医療の哲学を通した。武見の地位が確立した。

⑪前代未聞の”医師のストライキ”

S47年、保険医総辞退に突入。1月間。その原因は未だに定説はない。

記録としては次の通り。

36年の田中との合意が実施されていなかった。

「エマメモ」が導火
    1、医師の技術を正当に評価するため、薬剤の多用等による潜在的な技術料といわれる部分の
      整理をおこなうとともに、医師の技術による部分のウェイトの高い診療行為を重点的に再評価する。
    2、 容易におこなうことのできる診療行為は個別的に点数を設定しないで診察料に包括する。
    3、 同一目的のためおこなう同一系統の多種目の診療行為については包括して評価し、または
       逓減方式を導入する。
    4、外来患者の多少に応じて診察料に格差をつける。つまり患者の多いところは点数を下げ、少ないところは上げる。
    5、 疾病別に定額にするとか、月別に定額にするなど、件数定額制を導入する。あるいは一診療当たり定額とする日数定額制を導入する。
 

武見の反論

    1、佐藤政府の健保対策は、健康福祉の面で経済成長の成果を国民に与えるものではない。否むしろ経済成長の被害を
      零細なる所得層にしわ寄せするものであり、反社会福祉の最たるものである。健保改正案と診療報酬体系適正化メモ、
      即ち「審議用メモ」とは、その総論と各論である。医師会はその使命感に徹して全力をあげてこれを阻止する。
    2、低医療費政策は独占資本と健保組合に奉仕するものであり、低医療費、低質医療こそ国民にとっては最大の被害である。
    3、健保抜本改正は、その近代化の第一歩として政管健保を基準とする低医療費政策を放棄すべきである。

7月1日にスト突入

保険医辞退届けは7万2000人になた。会員数は11万8000名であったが、A会員(開業医)の全員参加であった。

⑫政府と合意するも、国民から反感


厚相との四項目は、

1、厚生省の医療行政に関する姿勢を正す。
2、医療保険制度の抜本改正案を次期通常国会に提出する。
3、医療基本法を制定する。
4、診療報酬において物価、人件費へのスライド制を確立する。

首相が加わった8項目の合意は、

1、国民の連帯意識を高揚する。
2、国民の医療は生存期間を通して一貫して保障する。
3、労務管理と社会保障を分離する。
4、各種保険の負担と給付を公平化する。
5、低所得層の有病率は高所得層の有病率に比べて六対一の比率であることを考慮する。
6、医療従事者の質的向上を図る。
7、大学研究費の公費を増やす。

勝利と判断しスト中止  国民は冷ややか。

審議会はこの合意に反発。健保法改正案を議員立法で国会提出。政府と合意された上記の抜本改正案とは何の関係のない内容であった。

著者評~ストまで行った結果には、情けないものだった。

この合意事項は、今でも検討に値するものではないだろうか。(松下記)

2001年の小泉内閣の時の医療保険改革とやり方が告示する。識者は抜本改革を主張したが、結果は単なる財政対策にすぎなかった。

審議医院は日医に反感をもった。日医はわがままである。ストの理由が明確でなかったことが原因。

⑬ストで組織を結束させた?

武見体制がその後10年続き組織固めに利用した。

武見は、国民を見方に引き込み、政府と戦う発想はなかった。

国民は反日医になった。

Ⅲ、欲張り村の村長たち。~武見太郎の奮闘

①医療優遇税制に不満高まる。

1954年実施。1972年資産~税の減収は800億円、一人当たり100万円の補助金と同じ。

②25年続いた優遇税制が廃止。(S54年)

控除率を5段階に分ける制度が新たに発足した。

③医師会員の3分の1は欲張り村の村長

武見は自民党と原則論で交渉し、合意を取り付けるが、自民党は実施しない。これの繰り返しであった。

武見が良くわからないのは、欲張り村の村長がと学問にあこがれた医学生が同居しているからだ。

武見は欲張り村の村長である。それを高邁なリクツで隠している。従って解りずらい。

武見の弁~医師会員の3分の1は良く勉強する、他の3分の1は指導者によって変わる。残りの3分の1は欲張り村の村長である。そこを理解してくれ。

④医療費値上げのシグナル

武見の学生時代~自己研鑽を積む自由人  その後の時代~軍医養成  戦後~知識偏重と欲張り村の村長が同居。

自分の努力によって研鑽を一生続け、他から指揮を受けず、自分の赴く方向に行く。

自民党との抽象的な覚書を自民党は最初から実行する気はなかった。 値上げの口実と考えていた。

⑤理論あっても政策はなかった。

⑥役人の風上にも置けぬ厚生官僚

⑦武見が厚生省に弄した小細工

官僚組織は明治以来強固である。

「名医と言う言葉がある限り、医学は科学でない。」

⑧医療費を決める中医協のコントロールに腐心。

⑩武見の難しさはその発想の複雑さ

Ⅳ、医師優遇税制撤廃~武見時代の終わり

①医師会員の関心は医療費と優遇税制

戦時中の臨時医専には2年の兵役免除があった。 欲張り村の村長や悪徳意思は臨時医専卒ガ多い

②勉強は分厚い本でするもんじゃない。~そうとも限らない。武見が理想論ばかりで、政策を打ち出せなかった理由もこの辺にあるかも(松下)

③武見、がんに倒れる。 

前田外科病院にて手術  当時はCT、血液造影検査なし

1980年発病、83年死亡

④死ぬまで会長をやりたかった武見

⑤人生の全てを医師会に賭けた。

⑥誰もやらない武見意思会長の総括

⑦スキャンダル皆無の私生活

武見が厚生省と戦ったから、医療費を値上げできた。戦わなければ、もっと値上げできた。~前者だろう。その後医療費は値下げされたではないか。(松下)

⑧掲げ続けた反官僚の旗。

これがなかったら、日本の医療は厚生省の言いなりになって、とんでもない方向に行ったかも知れない。

⑨首尾一貫していた政府への要求

  ●1960年要求項目
    1、制限診療の撤廃
    2、1点単価の引き上げ。
    3、事務の煩雑化防止
    4、甲乙二表の一本化と地域差の撤廃

  ●1971年一斉退陣、斉藤厚生大臣との合意事項
    1、厚生省の医療行政に関する姿勢を正す
    2、医療保険制度の抜本改正案を次期通常国会に提出する
    3、医療基本法を制定する
    4、診療報酬において物価、人件費へのスライド制を確立する
 

   ●同年、佐藤栄作首相との8項目の合意
    1、国民の連帯意識を高揚する
    2、国民の医療は生存期間を通して一貫して保障する
    3、労務管理と社会保障を分離する
    4、各種保険の負担と給付を公平化する
    5、低所得層の有病率は高所得層の有病率に比べて六対一の比率であることを考慮する
    6、医療従事者の質的向上を図る
    7、大学研究費の公費を増やす
    8、保険請求事務を簡素化する
 

     私は、この要望には。切実感のようなものが乏しいように思う。 抽象的で、具体的なのは医療費値上げだけである。

⑩政策を口にしない医師会代表

武見は学者肌で、金については潔しとしなかった。

⑪医師特有の父権主義

医師は偉い~プロフェッショナルとしてのプライドの維持と絶えざる研鑽

インフォームドコンセントには反対~武見から数えて3代目、直径である村瀬会長の時、日医として正式に採用

⑫反官僚を医師会の存在理由に

「自由人、反官僚」は一族の武見月照(僧侶)の影響かもしれない。

武見は自民党に献金していた。実態は闇の中。

Ⅴ医療費亡国論 花岡会長時代。(1982~83年)

①「開かれた医師会」を掲げた花岡

②老人医療費問題が浮上

東京都の美濃部知事が実行。1973年に国も押し切られる形で実行。しかし、高度経済成長のかげりで、財政を圧迫しだした。

医療と家庭の中間施設がなかったなで、病院へ入院する老人が増えた。「中間施設問題等懇談会」が中間施設建設を提言した。

③自民党に押し切られた老人保健法

野党、健保連、財界が反対。しかし、「老人の医療費を各保険者が相応に負担する」で、1983年成立。

花岡は厚生省との協調路線を取った。

厚生省と医師会との比較  厚生省の方が強い   政策立案の能力、統計情報部の情報 があるから。

武見は自民党の政治力で対抗した。

④保険局長・吉村の「医療費亡国論」

1983年発表。  ・不正請求には医師会との事前相談、打ち合わせなしに保険当局だけで医療監査が出来る体制を作る

           ・今後しばらく、薬価基準引き下げの診療報酬の振り替えや改定はない、と医師会に説明して欲しい。
            医療保険制度を今改革しなければ必ず崩壊する。

花岡は医師会と厚生省との協調路線に対する背信行為として批判。

若手官僚の提案 ・医療費適正化対策の推進~指導監査体制の強化、診療報酬体系の合理化 医療標準~標準的医療費をこえる部分は自己負担

           ・医療保険給付の見直し・医療保険の負担の公平化
                          ~組合健保の本人の自己負担を現行の定額制からかかった医療費の2割とする。
                           入院時の給付材料費を保険の対象からはずし、1日600円自己負担
                           一定のビタミン剤、総合感冒薬などは、保険対象が外とする
                           年収2000万円以上の高額所得者を健康保険からはずす。
                           定年退職後のサラリーマンを対象とする退職者医療制度を創設する。
                           市町村国保への国庫補助金を従来の45%を、保険給付費の50%とする。
                            日雇い保険を廃止して、政管健保に組み込む。

その後、この路線に沿って進められ、2001年小泉内閣の”財政対策”が実行された。

⑤健康保険問題にメスが入る。 

「医療費増は経済の成長率以内に抑えるべき」~吉村

Ⅵ老齢医療の問題~羽田会長時代(1984年~91年)

①キングメーカは東京都医師会

②医療費増の問題の本質には触れず。

福祉先進国は経済的に成長が止まった。(医療費増大に対する吉村、大蔵省の根拠)

数値的根拠気基づいた対策は打ち出せなかった。

経済の停滞で、社会保障がピンチになった時、どこに問題があるのかをさぐらず、単に財政政策的に対処したのが、小泉改革である。

日医厚生省よりになったことも影響した。

老人保健によって老人医療を国民医療と切り離した。

③小さな病院はつぶれる?

病院は重装備を要求された。従って、民間の小病院は其れが出来ず、国民はこれを敬遠し始めた。

小病院は老人病院になるか、特別老人ホームに転換するようせまられた。

羽田会長から10年後の坪井会長の時、日医総研と言う政策立案組織が出来る。

④自分の金を出そうとしない医師たち。

新医師会館の設立

医師はケチである。専門書、飲み代は製薬会社は払った。

日医の総意は、結局のところ金である。

⑤末期医療に目を向けた生命倫理懇談会。

末期医療は無用の治療(日医の良心)

⑥インフォームド・コンセントが定着

ドイツ軍の人体実験に関する、ニュルンベルグ裁判をきっかけとする。

スタートはドイツだったが、ヨーロッパでは広がらず、米で広がった。

「医師がインフォームド・コンセントしていない医療裁判は、すべて敗訴になる。従って、医師は不承不承実行している内に常態化した。(20世紀末)

父権主義の日本では普及せず。

日本人は飲んでいる薬の効能、副作用を知らないし、知ろうともしない。欧米ではありえない。

21世紀、半数以上の医師が採用するようになった。

⑦医療問題山積の羽田時代。

Ⅶ「家庭医構想をめぐって」  村瀬会長時代(1992~1995年)

①阪神淡路大震災の被災地を訪問

②薬価差益か医師の技術料か

日本の薬剤メーカや卸は、医療機関や医師の要望に応じて価格を下げるが、外資系メーカーは薬価基準価格で販売する。

薬の質は外資系の方が優れている。

③厚生省の「家庭医」構想

戦後すぐに実行されたイギリスのベバレッジ案は、医療の国営化に繋がる制度。

家庭医は広く浅くのオールラウンドの納涼が必要。しかし、40年代にインターン制度が廃止され、卒業後すぐ医局に入るので、

医局の伝統的特定の病気しか知らない専門医的医師が誕生する。

卒後2年間一般内科、一般外科、小児科、産科、救急、公衆衛生の各科をローテイトして、試験に合格すればファミリー・ドクターとして遇しようとした。

これは、医療費の高騰が国際的に問題化した時期と重なる。~S50年代から構想し、平成12年12月実施。

④あいまいな「かかりつけ医」でいい。

国民が選んだ医師  家庭医制度は医療の国営化に繋がるので、反対。曖昧で良い。

Ⅴ医療のグランドデザインへ(坪井会長時代~1996年~)

⑤与党はあくまで東京都医師会。

革新派。

⑥福井の既定路線にに反発広がる。

⑦会長セで露見した金権体質

⑧一代目医師の魅力を持った坪井

⑨政策の弱さをカヴァーするシンクタンクを

厚生省情報統計部~戦時中に発足。日医の独自の情報がないことを日医の弱点と坪井は会長になる前から痛感。

坪井は厚生省の情報に疑問を持っていた。

日本医師会総合研究所を設立。会長中村十念(東京会場出)

年間予算 12億円  常勤20名  非常勤50名  5億円は日医が負担  7億円は自前で稼ぐ

⑩厚生省のミスを指摘した日医総研

医療費予測~2025年についての予測値は1995年の2分の1になっている。

わずか数年のうちに、予測値が半分になっている。国民に医療費抑制をせまる情報操作である。

これを指摘したのが、日総研。これだけでも、この研究所を作った価値がある。

2015年  56兆円 と日医総研は推計 この数字が日医が提示する「グランドデザイン」の基になる。

⑪政策立案の土台となる数字と理論

⑫反響の大きな「医療のグランドデザイン」

2007年から人口が減るのに、厚生省情報統計では医療費が増える。これは考えにくい数字である。

特徴  ・75歳以上をオールド・オールドとしたこと。~重大な病気になる人が多い。死ぬ人も多い

     ・75歳~65歳をヤングオールドとした。  ~重大な病気になる人は少ない。死ぬ人も少ない。働ける人も多い。

痴呆でない状態を健康寿命、と言う。(自分のことは自分で出来る)。これが75歳くらいで、日本がトップ。

75歳以上を別枠の老人保健とする。90%を国庫負担、10%を自己負担。

⑬坪井の老人医療プランを政府は無視

坪井予想~高齢化は社会保障費を圧迫するのは2015年頃から。それまでに、老人医療費を何とかすれば、持ちこたえられる。

2015年  推計医療費   576兆円   厚生省  2025年   104兆円

⑭社会保障の経済効果をどうみるか。

私は、議論の対象にならない理由を、政府はたとえばインターネットのようなもので示すべきではないかと思った。社会保障の経済効果をどう見るか

「デザイン」のもうひとつの特徴~「社会保障はかなりの経済効果がある」と言う主張。

重症患者が健康保険で全快し、社会復帰することは、経済効果がある。

グランドデザインで私が注目したもうひとつの点は、「社会保障にはかなりの経済効果がある」
という主張である。これを日医がきっちりと主張したことには、当然とはいえ感心した。
いまから二〇年ぐらい前の話だが、経済学者や財界人の集まりで、理論経済学者のU教授(故
人)から「水野さんらが熱心に主張している社会保障というのは、国の経済にはなんの寄与もし
ていない。だから、私たちが経済予測をするときには社会保障費を除外しておこなうのだ」と言
った。このU教授が私に言いたかったのは「健康保険などはいらない。民間保険でいい」ということだったのである。
 

そういえば、U教授も、いまの経済財政諮問会議のメンバーの大半がそうであるようにハーバード大学の大学院の出身者で、
これらの大たちの先駆けのような立場の大たった。
 

私は、この話をいまも忘れていない。「そんなはずはない」と固く信じていた。たとえば、健
康保険で重病患者が全快して社会復帰した場合、経済効果がないとは言えない。現にアメリカで
はいかなる保険にも加大していない大が四〇〇〇万人以上いる。二億の人口の五分の一である。
アメリカ民主党員のクリントンやヒラリーは、これを教うために日本の国民健康保険を導入しよ
うと努力したが(ただし五割自己負担)、うまくいかなかったのは周知のとおりである。
 

坪井は言う。
 「社会保障費と公共事業費をそれぞれ一兆円ずつ投資したとしての経済効果や雇用効果をシミユ
レーションしたものが日医総研にデータとしてあるが、それによると、社会保障資は投下資本の
約三倍の経済効果があり、雇用効果は約二・五倍の効果がある。公共事業の経済や雇用の効果は
一過性のものだが、医療への資本投下はそれがずっと効果として続くというところが有利な点である」
 つまり、公共事業の経済効果や雇用効果は、その事業をしている間だけで、それが完成すると
次に新しい事業をしない限り、終わった時点で、経済効果はともかくとして雇用効果は消失する。
坪井はこの点を強く指摘したが、私は非常に重要な指摘であると思う。

小泉はこれを無視して、財政的観点からのみ、医療費の自己負担を増加させた。

⑮武見と坪井に共通する反官僚の姿勢。

H18年、武井は「わが医療革命」を出版。

坪井の時代に小泉政権が出来た。其れを指示した反坪井勢力も出来た。

⑯坪井執行部への風当たり。

小泉政権~医療保険税の大幅アップ、自己負担率2から3割へ。医療費を2,7%引き下げた。

坪井は反対したが、世間全体が小泉ブームで、抗しきれなかった。

3割自己負担増なしで保険は機能する、ことを指摘した。

「経済財政諮問会議」の医療株式会社論こそ、恐ろしい、とした。

⑰社会保障全体の中で医療を如何考えるか。

小泉は社会保障全体の中から、医療費改革を考えなかった。いきなり、財政論から突入した。結局、財務省案が通った。

あとがき

<コメント>

全体に評論家らしく、<理性>の目で見て書かれている。「医療費亡国論」に一定の反論を試みているのに注目した。

しかし、厚生省の審議委員を長く務めただけに、既存の価値から抜け出さない人だ。厚生省と医師会との長年の付き合いから

外部からうかがい知れない情報が書かれているが、多くは如何でも良いものである。

超ミネラル水の力を知ったら、素直に「理性」で受け入れるであろうか。興味のあるところである。 

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