|
日本医療史 新村拓編 ㈱吉川弘文館 323P
死と病と医
1、理想の死に方
①長寿
貝原益軒~「ヒトの身は百年をもって期とす。上寿は百歳、中寿は80歳、下寿は60歳なり。」
杉田玄白~長寿を願うのは、老いの苦しみを知らない者のたわごと
②老少不定
「若きにもよらず、強さにもよらず、思いかけぬは死期なり」~徒然草
2002年、100万人の死者。65歳以上が80%~老いるまで死なない。(1935年 23%)
現在~「間延びした生」を恨めしく思うヒトがいる。
医療費、介護費の重圧は、死にたいする恐れ、不安が延命よりも尊厳死、安楽死を好ましいと思うようになる。
③健康寿命~「願わくばほっくり往生をとげ給へ。」
④理想の死~信仰に支えられた死。天寿全死
吉田兼好~「命長ければ恥じ多し。長くとも40に足らぬほど~。」~一般の公家は長生きを望んだ。
益軒~ヒトは天年を尽くさなければ、人格を完成できない。また、親孝行も出来ない。天にたいしても不孝である。従って、養生に努めよ。~老衰死を
薦める。
現在~老衰死は2万3000人。全体の23%
2、病と求められる医療
①病と憂苦。~医療の進歩は理想とした老衰死を少なくし、病名のついた病死を増やした。病名がつけば死ぬまで医療の世話になる。
これが現代人に共通した意識である。その意識は高度成長経済期以後のこと。それ以前は、経済的な余裕がないために医療とかかわらない人が大勢いた。
国民皆保険がそれを保障した。今は財政が追いつけない。
憂苦を回避する為~身を養い、ヒトを助け、忠孝のつとめも、医の役割である。
病は日常の生活を振り返らせ、何が大事かを悟らせる。病と言う負の時間としっかりと向かい合うことが、その後の人生を豊穣なものにする。
②病名~病(illness)~本人が不快を自覚している。 疾病(disease)~医師が宣告する。
③増え続ける病名~漢方~全身状態の読み取りに重点が置かれるため、病名に関心が薄い
西洋医学~気質的な病変、実態としての特定できる局所的な病因を追求。検査、診断技術の進歩で、病名は増える。
WHO~14000の病名 1953年 270万名(人口の3.1%) 793万名(6.2%)
④病因観~社会の持つ人間観、社会観を基底にして形成されるもの。
飲食の招くもの。過去に作れる罪、現前に犯せる過ち。心身の変調。飽食や疲労。
「風に当たり、湿にふして、病を心霊に訴ふるは、おろかなるヒトなり。」(徒然草)
⑤治療方法
仏罰、神罰~懺悔、経典読誦、お祓い等
四大の不順~方薬
座禅整わず~座禅
身の安んずるの本は必ず食のより、疾を救うの要は必ず薬による。
医師は食療して癒えることがなければ、しかる後に薬を用いる。
医療方法の選択は、その者の育った環境や文化的背景が決定要因である。その意味で医療は文化をを凝縮表現したもの。
⑥看病 前近代社会~多元的医療行為が認められていた。
近世後期 医師 平野重誠 「医者3分、看病7分」
明治の軍医総監~石黒忠則~医師の力5、薬剤、食 3、 看護婦2
ハンセン病、精神病等は同情が薄くなり、看護も嫌われた。
病人遺棄が中世末まで行われた。
⑦臨終看護~不浄や穢れを厭うことなく、最後まで看護に努めよ。仏徳によって穢れから生じる災厄を免れることが出来る。(各宗派に受け継がれた。)
~庶民にも受けつがれた。
~身体的精神的なケアに努める。無常院などの施設に入れる。終末期には延命の為の医療を行わない。
明治以後~見取りの主体は家族、親族、隣組、振興仲間から、往診医、などの医療者に移った。告知を禁じて、パターナリズムに徹し、
延命のみに努める医療が推進された。精神面におけるケアーは後退した。
⑧病院医療から在宅医療へ。 戦後派家族や地域の介護力は地に落ちた。すぐ医師に頼る心性が生まれた。 1977年病院死が在宅死を超えた。
2000年介護保険法~病院医療から在宅医療へ。 医師主導の延命から患者の自己決定へ 変革の時期。医療はどのように歩んでゆくか、
歴史を振り返りながら考える。
Ⅰ古代の医療
1、古代国家の医療体制
①薬部と朝鮮医学の導入
病気は一個人の生命だけではなく、社会の存続にも重大な影響を及ぼす。~主張は治病、除災が重要な職能であった。~因幡の白兎伝説
治病の失敗は支配基盤を脅かす。そこで、治病を専門とする補佐集団を作った。
地方の首長の下にいた呪医は祭祀と医療を担う複合機能集団として大和朝廷に隷属させられた。これらの氏族は、新しい医療知識を持つ帰化渡来人
の出現、大和朝廷による祭祀権の全国的な統括、労働組織の整備と言った一連の変動のなかで、次第に機能を分化させた。医療は帰化人にまかせ、
種族は薬種を収集した。
②典薬寮と内薬司~医師10人、医生40人、医博士一人 針師5人 針生20人 針博士一人 呪禁師 2 (奈良期に限定)
乳牛院~公家が病気のとき飲んだ。残りはチーズを作った。 全体に人数134人
③医官の要請~世襲の子弟 庶民(8位以上)の子弟 から採用。 漢から初唐にかけての医薬書を習った。
「医針の道は国家の大要」 医生の9年 医得業生7年 の併せて16年が就学の期間~29~32歳で任官
課試(試験)は次第に行われなくなった。譜代重要が幅を利かす。(世襲制) 特定の有力な氏族たちの間で再生産される。
④臨床重視の姿勢
杉田玄白~場数重視~古代でも同様
昇進昇格には勤務評定があった。患家から宮内庁に申し出る。「治療の損と不損」
雨森芳洲~「医を学ぶは人を費やす。およそ医、薬を誤ること幾十遭、しかるのち心を困し慮を衡り、以って医療の名を成すことを得。」
~「医を撰ぶべき意得」に通じている必要あり。
2、平安の都人を襲った病
①医師と験者の競い合い
祈請祈祷に走り、医師をないがしろにしてきた。
「あまり太れりしかばにや、口渇く病」「水まいる心地」~糖尿病~平安期 鎌倉期の武士 に広まる。~ミネラルとの関係。野島仮説への反証例
「異本病草紙」~婦人病、眼科、膿瘍、腫瘍、腸ロウ 精神の病 等生々しく記載
医療過疎の問題となった。
②祈祷と医療に従事する僧
そもそもも、仏教の受容は「藩神(仏)」が持つ高い治癒能力に期待したものであった。(日本書紀 )
「薬師は常のもあれど、賓客の、今の薬師、貴かりけり、賞だしかりけり。」(薬師寺の仏足石歌)~世の常の医師より優れている。
祈祷、鍼灸、湯薬 僧は基礎教養として医学を学んだ。(アーユルベーダーを基にしている。)~中下層階級の僧の生活手段。
③疫への対応
第一 神仏への祈祷、第二に改元、第三に仁政 ~天皇は自らの不徳を天に陳謝し、徳化を行うと誓う。
結核は近世老咳、老症と言われてはびこったが、中世では正確なことは不明だが、注目を浴びなかった。
④撰ばれた治方
・灸治~手軽に行える物理療法。
・針治
良い針師は生まれなかった。室町期に生まれる。(吉田意休、御園意斎) 杉山和一~民間医主導
・選ばれた治方 蛭食治
・選ばれた治方 湯治
Ⅱ、中世の医療
1、典薬寮の変質と空洞化
①典薬寮の衰退~鎌倉、室町幕府には医療に関する職制はなかった。 丹波、和気、惟宗、仲原 氏による世襲、請負制
室町期に優れた民間医が輩出したため、この請負制度は崩れた。~官医の凋落
近世の幕医、藩医の職制はこの民間医を職制化したもの
鎌倉期~官医が鎌倉に来る。~将軍御医師、関東医師~御家人扱い~その中のあるものは官医を辞して関東に本貫を移すものもいた。
太政官機構全体の空洞化が進む中で、唯一の国家医療機関であった典薬寮は衰退していった。230町を越える寮田かなの
賃租、地子が、荘園化の振興で、少なくなった。
薬の専売権による収入があった。 16世紀半ばには、諸国から薬種を中央へ貢進させるシステムが解体される。
典薬寮が管掌していた諸官司への予備配薬の職務は平安末にはおこなわれなくなった。 1470年 「医陰両道滅亡無残」
②位階の上昇 官医は民間医との競争を有利にしようと、官位を求めた。公家は療治賞として、官位を与えた。
2、民間医の登場
①官医の凋落~中世後期、民間医の器量が上回った。官医の権威の失墜 民間医優位の兆しは鎌倉期にあった。
武田昌慶、吉田意庵、坂浄運、僧月湖、田代三喜ら民間医は渡明して先進的な医を学んだ。貪欲さにおいて、官は劣っていた。
それでも、室町初期までは、かなりの水準を保っていた。しかし、その後は低下した。
曲直瀬道三、施薬院全宗
②治病の工人~室町期~里中医(天皇を診療する医師)、経験をつんで良医師になったもの、「渡りくすし」遍歴した医師、
「道のもの」(門弟が集まって研鑽した)
~京で門戸を立てるには高い臨床能力が必要だった。
~「医は衣なり。衣服美ならざれば行われず。医は威なり。威厳敬重ならざればあたわず。医は異也。異言、異体よく用いらる。
医は夷也。ややもすれば人を夷ふ。医は稲荷。よく尾を出さずして人を誑かす。」(了何遺書。近世末の随筆)
③医療の専門分化~外科(時宗、禅宗の僧侶に多い。)~気付け薬、縫合、手負い薬、金ソウ薬、止血薬。
「目の病をつくらう医師」(目医)~歯科医と並んで平安末期に専門化した。~薬による治療だけでなく、
「眼幕」を切ることによる白内障手術も行われた
「歯科医」~抜歯がほとんど。
「少小科」(小児科)~室町期
「産婦人科」
④死の判定と脈診~脈診が始まったのは鎌倉後期。視の判定にも脈診は取り入れられた。それまでは、絶息をもって死の徴候とし、死の確定には死臭
の発生体の崩壊が必要とされた。(相当厳密であるのに驚かされる。生き返るかも知れない、という期待感がそうさせた。~松下)
中世には、絶息後あまり間をおかず、死と判定した。~絶脈(鎌倉後期)
⑤医療の大衆化~「明衡往来」、「東山往来」(平安後中期)、庭訓往来(南北朝)、「尺素往来」(室町後期)
「太平恵民和剤局方」(宋~日本でも活用される。)
往来は医薬知識を一部の貴族、僧侶以外に広める役割を果たした。中世末には、薬店、薬種商の動きが活発になる。
Ⅲ、戦国期の医療
1、道三流(当流)医学の普及
①田代三喜の李・朱医学導入~民医学の導入
武田昌慶~10年間 金翁導士に師事。
田代三喜~元、金の李東垣、朱丹渓の医学を学ぶ。12年間~帰国後還俗して下総の古河(茨城県)で医療活動。
曲直瀬道三~田代三喜の弟子。「類証弁異全九集」~巻一~診脈 養生論
巻二~薬味の効能、合食の禁
巻三~中風、痢病、咳、積聚、脚気の治方
巻四~脹満、黄疸、淋病、諸熱、下血、溺濁の治方
巻五~ロウサイから鬱証の治方
巻六~婦人病、小児門の治方
巻七~灸治の詳細 運気の詳細。予防医学の心得~少思、少念、少欲、少事、少語、少笑、少楽、
秘伝 少喜、少怒、少好、少悪
・面目直視~病人自ら色変わり、瞳が動かず直視するは不治の病なる。
・忽作死臭~病人にわかに悪臭を発して近づきがたきは、死証と知るべし。
・陰脈錯乱~病人の寸口の脈が忽現れるは、難治と知るべし。
・脚フ腫起~病人の足の甲が腫れ、踝のの骨の見えざるは、必死也。
・口唇反張~病人の唇が反り返り、色がすすけて黒きは、必死の症なり。
・爪甲レイ黒~病人の爪の甲がススシミのようならば、難治なり。手足の爪が茎なでススシミ黒きは、死証なり。
・面黒聚口~病人の面色がレイ黒で、口がすぼみ、言語不自由なるは難治と知るべし。
・上鼠喘短~病人の足が腫れ、目を見出し、口を動かし、声が出でず、喘息あるは、十死一生と知るべし。
・肢重如石~病人の脚が腫れ、重きこと石のごとく、ひたすら左右になげうつは、死証なり。
②京医師の動向と「啓テキ集」~曲直瀬道三は田代三喜死後、京で院を設立。(京は戦乱の時代) 幕客の要請で治療する。
類似の病証を病門に一括した上で、それぞれの病の名証ごとに、由来(定義)、弁因(原因)、証(症候)、脈方(診断)、類証(類証鑑別)、
予知(予後)、治方(治療法)の順に詳細を解説した。
③医の理念と医学教育
「道三流」と特別視されてた。「慈仁」「脈証を察して病名を定べき事」
精密な診断の基に病因を観察して、病の経過を詳らかにして急性と慢性に分け、方土あ(自然)、老若、男女、貴賎の別によって病の症状が違い
治療方法も異なること、さらに薬の使い方、灸穴の枢要を知った上で療治にあたるべきこと。
道三の講釈には畿内近国の門弟が参集した。
④養成心得の浸透
合理的で実践的な養成法を広範囲に普及させた。~「養生和歌」(道三)
・気を尽くし、心を苦しむること、第一の戒めに候。
・珍物の美食、連続の飽満、夜食等、第二の戒めに候。
・淫事を恣にし、腎精を尽くし、水源、骨髄をカワカス儀、第三の戒めに候。
気を尽くしたときは花を眺め、茶の湯をおこし、遊びを催すこと、食物は塩噌をうすくし、過不足なきように魚鳥をひかえてとること、
房事(セックス)の慎みは筋骨が弱まることや病の発生を防ぐ為。
天下万民に浸透することを望んだ。養成の有り様が立ち居振る舞いから一日のすごし方までなど、生活の全てに及んでいる。
儒学の一般化と合わせて、当時の庶民の予防医学の向上に貢献した。
2、戦国大名と豊臣政権の医療政策
①京医師の領国招請と医師養成
群雄割拠の時代~京の専門医の領国への下向が活発になる。 専門医不足。
②豊臣政権の番医制度~皇室の医官や足利将軍家の侍医を吸収しながら、新たな医員を選任し、これを番医として制度化した。
秀吉の筆頭侍医の施薬院全宗が医師団を指揮した。
この制度は徳川に引き継がれる。
③施薬院の復興
施薬院高札~・来る6月朔日より9月10日迄、百日のうち、薬を施し候間、貧賤・孤独・婦人・小児・を論ぜず、病症によって治療せしむべきの条、
所望のカタガタは申しこらるべきものなり。
・大病にて来ることなりがたき仁は、たとい洛外たりとも、行きて診脈せしむべきものなり。
・病人ならびに薬所望の人々、明六ツ時(午前六時ころ)より日中までに、来らるべきなり。
3、金創療法と常備薬
①武将の戦陣手療治~戦陣では外傷は勿論、過激な行軍、不摂生のため、流行病に罹りやすかった。
武田信玄~腹痛の薬、オコリ病(マラリア)の薬、熱気(流感)の処方の薬の処方を会得し、後世に伝えている。
排膿、浄血、止血、消炎、利尿、鎮痛、解熱、健胃、補血強壮、瀉下~甘草などの生薬
止血~一寸の長さの女性の頭髪五本、小粒の栗ほどの味噌、茶碗5分の一ほどに煎じた人参。
戦陣での試行錯誤の結果得られた方法を後世に伝えた。(稲葉文庫)
②金創伝授~金創医術~戦傷その他の救急医療)~士卒が医師の手を借りることなく、創の治療を行った。
気付け薬(興奮剤)、→止血、→傷を洗う、→縫合、→抜薬(矢、玉を抜く)、→内薬
これらは助産にも応用された。
④家伝の常備薬とその流通
貴族や寺院に家伝の秘薬として伝えられてきた常備薬とその製法が、家中を越えてひろまり、贈答用として流通するようになった。
公家三条西家の常備薬、臨済宗大徳寺の大本山の製薬法等等。
Ⅳ、近世の医療
1、徳川幕藩制社会の医制と医療
①医者の身分と医員の職制
・幕府奥医師、~本道(内科)、奥外科、奥口中医、奥眼医、奥小児医、奥鍼医に専門化した。他に、奥医見習い、奥医並、 奥詰医師(奥女中を診た)
御番医師(けが人など不測の事態に備えた泊り込み医師)、寄合医師(役を退いた医師)、若輩医師、小普請医師(成績が悪い非役の医師)
御目見医師(優れた抜擢された町医師、藩医師)~身分社会制度の中にあって、専門職として世襲制の弊害を克服しようとした。
・藩奥医師、
・町医者(五代将軍綱吉の時代に確立)
②医員の細則と小普請医師の運用~武家社会にあって、医師制度も厳しい身分制度であった。 老中、若年寄りの支配下にあった。
③セン気・流行病とその対策~セン気(腹部の激しい痛み~難病視)~鍼灸
流行病(麻疹、疱瘡)~感染防止対策が採られた。
④人参栽培の奨励と薬価統制
薬屋による薬価の調節、偽薬の横行が耐えなかった。
消費経済が肥大化した綱吉の時代に、人参の需要が増えて、 偽薬が横行した。
薬草の<見分け>(実地調査)が藩医、町医を動員して全国で行われた。このとき、これらの医師に製薬法も教えた為、
本草知識が全国的に高められた。また、薬草の人工栽培が本格化した。(小石川薬園~4800坪→4万8000坪へ拡大)~薬価の低下
人参は供給不足であった。(偽人参の横行)~小石川薬で朝鮮人参の栽培を行うが失敗を繰り返した後、成功する。以後日光山麓今市宿
での本格的栽培を軌道に乗せた。その後奥州、信州、上州に広め、清に輸出するほどになった。
⑤小石川養成所の施療と看護
出稼ぎ、日雇い、奉公人が江戸で激増した。~吉宗は小石川薬園に養成所を設立した。(254坪、病棟5病棟、)
看病人がいない病苦の貧窮者から、極貧の病人や行き倒れまで範囲が広げられた。収容人員~40人から117人へ増やした。
一文も持たない貧民が入所できる仕組みであった。
2、医師と病と医療
①医学館の医師養成
1765年医学校の建議(幕府奥医師多紀元孝)~医学館(神田佐久間町)
教育の内容~100日間~「本草」「霊枢」「素問」「難経」「傷寒論」「金キヨウリャク」を講釈
100日間~技術
授業料はタダ。
②”気”を重んじた治療
伝統医に対する分派形成があった。
後藤艮山~百病は一気の留滞に生ずる」(病は気から) 食餌療法の重視
「業にすれば、どうでも医者根性というものになる。医は病を治する名にして、業の名にあらず。医家者流の其者(医業の達人)になるも、医に心を用いず、
第一業が主になるゆえ、いろいろ私欲が出てきて名聞利害にわしるなり。(走るなる。)病人の為になることは工夫せず、私に覆われるゆえ、ききもせぬ薬
をむりにうりつけて、かえりて手害をなすなり。不仁の甚だしきなり。」
③医門の流れと牛山処方
香月牛山(18世紀前後)~大覚親王の病を治して名を馳せる。身分や老若男女の差別なく疫病治療とその対処方を工夫した。
生薬で1708年の麻疹罹患者530余人を治す。
④儒医の養成論
貝原益軒~医師から儒者への転向を主君の筑前黒田藩主から命ぜられた。84歳にして「養生訓」 85歳で死ぬ。既存の養生書の集大成。
自身の罹病体験や服薬例、家中の妻、下男下女知人らに与えた投薬、治験、症状に基づいて書かれた。
病気予防のために心身の備え、立ち居振る舞い、呼吸法、飲食、飲酒、飲茶、交接方法の是非、体の手入れの仕方、排尿、排便、洗浴方法、
病中、病後の対策、医者の選び方、薬の使い方、老人への心遣いと接し方、老後の心がけと保養方法、丈夫な子育て法、鍼と灸の使い方。
3、家庭の疾病対策
①合わせ薬の流通
江戸時代の医療の特徴~家庭薬としての合わせ薬の普及(戦国期に公家、武家、富裕層間の贈答品として流通した合わせ薬が、一般家庭に広まった。
「和中散」はシーボルトも1826年、胃痛や頭痛に験を得た、と記す。
②薬売りと置き薬
村医はいなかった。町医は往診が主~緊急時に薬を必要としていた。~各地に民間薬の派生や伝承がもたらされた。(修験道の山岳信仰の成果)
(幕府や藩の医療政策は弱薄であった。
富山藩は良質の合わせ薬を全国規模で販売した。(越中富山の薬売り)~万病薬
③同行(山伏)の病封じと処方
医者、薬も買えない人々は、山伏に病封じを頼んだ。~修験者の地域医療活動。加持祈祷と施薬。本草知識の豊富なことが効果を生んだ。
④湯治と汲み湯
湯治~庶民家庭単位の疾病対策 体験記、研究書が多く出た。
Ⅴ、近世の西洋医学と医療
1、ヨーロッパ医学との出会い
①キリシタン医療の展開
イエズス会の宣教師(ポルトガル人アルメイダ)が1557年に豊後府内(大分市)に日本初の西洋式病院を開いた。(外科、内科、漢方)
1586年島津軍が大友軍を破ったとき、焼失した。
1583年長崎に救貧、求病組織ができる。(ミゼリコリジア)~信者による医療ボタンテキア~山口、豊後、大阪、高槻にも設立。キリシタン医療
1620年破壊される。1632年会頭ミゲルの殉教で解散
②南蛮流外科の導入~イエズス会宣教師クリストヴァン・フェレイラは拷問で苦しめられ、ころびキリシタンとなり、禅僧沢野忠庵となった。
外科のこころえがあり日本人に教え、彼らは幕府の医官になった。
栗崎流~ルソン島で栗崎道喜が南蛮人から創外科(刀傷)を学んだ。その子孫が江戸に出て、オランダ人との交流に努め、紅毛流外科を吸収した。
傷口の洗浄にアラキ酒(焼酎)を使った。(日本の金創医より優れていた。)
2、紅毛流医学の伝来
①オランダ商館医カスパル~医学伝習と砲術伝習のため江戸に滞在。
1674年ライネ幕府要人を診療した。鍼灸術、樟脳をヨーロッパに伝えた。
1686年伊良子道牛~カスパル流外科を10年学び、1696年京都で開業。乳房炎と乳がんを区別。肺壊疽、盲腸炎などの治療法を示す。
切開方法、止血法、縫合法。門人の養子の大和見立に学んだのが花岡青洲。
②紅毛流医学の人々
③オランダ通詞の医学~最初の静養解剖学の書を翻訳した。
吉雄耕牛~外科学、内科学、診断、治療学 カテーテル、寒暖計を使用。帝王切開をすべき。悪性腫瘍の手術方法、乳がんの切除手術方法
3、蘭学の勃興
①実学奨励策と蘭学への道程
吉宗~漢訳洋書輸入の禁の緩和~18Cの前半から漢方医学でも実証的な風潮が高まる。山脇東洋~人体解剖書「蔵志」
②「解体新書」刊行~1771年 小浜藩医杉田玄白 中津藩医前野良沢 江戸千住小塚原の刑場で死体解剖を実見 「ターフェル・アナトミア」
の正確さに感動し、翻訳を決意。1年半後1774年江戸須原屋市兵衛より刊行。膵臓、門脈、ゲール管を指摘は従来知られていなかった。
神経、軟膏、十二指腸、盲腸の語を使用した。梅毒の治療に力を注いだ。(水銀液療法) 収入1801年643両
③玄白門人の活躍
一関藩医建部清庵が玄白に質問状をだし、玄白は懇切丁寧に回答する。清庵感涙する。その後、三男亮策(建部家を継ぐ)、五男勉(杉田家を継ぐ愚)、
門人大槻玄沢(学問上の玄白の後継者~「重訂解体新書」を完成させた。~芝蘭堂塾を開設。)を玄白の門人として学ばせる。
津山藩医宇田川玄随~1793年「西説内科撰要」~日本における最初の西洋内科専門書。その門人吉田長淑~最初の内科専門医として、
江戸中橋で開業。
宇田川玄真~玄随の養子~「泰西眼科全書」(オーストラリア・ブレンク「蘭訳版眼科書」
~門人の筆記「範提綱」(解剖学から生理学、病理学まで。当時最高の西洋医学書)西洋画家亜欧堂田善~初の銅版解剖図
宇田川ヨウアン~玄真の養子~「菩多尼カキョウ」「植学啓原」(植物学)「舎密開宗」(西洋化学)
④建部清庵塾の医療~患者の階層~藩士層→10.9%(19例)、百姓→21.7%(38例)、町人→36.6(64例)、その他→30.6(54例)~9割が庶民階級
⑤解剖の広がり~1821年、京都の刑死人を解剖。1785年、一関で解剖。1764年 米沢範で解剖。 1822年 仙台で女性を解剖。
1796年 大阪。 1842年緒方洪庵 解剖舎
⑥農民がつくった解体人形~19C前半~解体新書の影響は農民にも広まった。農民出身の蘭方医。
~一方で解剖そのものへの反発もあった。(穢れ意識)
⑦漢方医・和方医からの批判~解体新書の内容は、既に古典に説明されている。繊細緻密であるが、ものにこだわりすぎて、
五体の調和に関わる真実を見失いがちで在る。
解剖は「惨」である。(儒者、漢方医)
地域風土に密着した医療を説くことによって、西洋にこそ普遍的な真理があるとして地域の特殊性を無視しがちな
蘭方医を批判したが、固有医方とはいっても民間レベルであり、機軸とはなりえなかった。
4、全国に広がる蘭学塾と医療
①シーボルトの医療活動 1823年来日 長崎鳴滝塾を開く。(医学、自然科学教育を行う。) 日本の臨床医学の始まり。
②シーボルト験録~ジキタリス、オクリカンキリ、 梅毒の治療、牛痘種法 体温測定 。
常用薬~リンドウ、大黄、ハッカ、ケイヒなど、日本人に入手しやすい薬を用いた。
③伊勢国春林軒の麻酔手術~紀伊の花岡青洲~マンダラゲ(朝鮮朝顔)と鳥頭(ヤマトトリカブト)にビャクシ、トウキ、センキュウ、テンナンショウを
配合した麻酔薬、通仙散を生み出した。~1804、この全身麻酔薬で乳がん手術を行った。
患者は60歳。痛みもなく手術は成功したが、4ヵ月後死亡した。
患者が虚弱な場合、体力が回復していない場合、胸の動機が激しい場合は、麻酔をしなかった。「乳癌姓名録」
乳がん以外に、舌疽(舌癌)、脂瘤、肉瘤、悪性デキモノ、兎唇、痔ろう、脱疽などの手術を行った。
(癌が当時でも珍しい病気でなかったことがわかる。~野島医師の見解は誤りかも。松下)
清秋の門人は1887人。
④坪井信道の医療~16歳男子。神経熱。漢方医が治療できず、坪井のところに治療を請う。回復させることに成功。
蘭方医の勢い増す。天保末年(1840年ころ)には、伊藤玄朴、戸塚静海、と並んで、江戸の三大蘭法医と呼ばれた。
1848年塾生67人。適塾を開いた緒方洪庵、蝦夷地の種痘で知られる桑田立斉、化学の道を開いた川本幸民などの多くの蘭方医がでた。
⑤適塾の日々~16歳で大阪の蘭方医中天ユウの門人となった。4年後江戸の坪井信道に入門。蘭語習得に励んだ。1832年、ローゼの生理学の蘭訳本を訳す。
長崎で語学習得後、大阪に適塾を開く。
⑥「東の長崎」順天堂~1843年、江戸で開業していた欄方医佐藤泰然が、下総国佐倉に順天堂を開いた。
シーボルトに師事した戸塚静海が1831年茅場町で開業。京都の新宮涼庭の順正書院、適塾、など各地で西洋医学塾が生まれていた。
順天堂は医学教育、外科医療、オランダ語教育とも評判。
松本良順(泰然の次男)、佐藤尚中(泰然の養子)。膀胱穿刺、帝王切開、卵巣水腫回復、乳がん摘出など、当時として最高の外科手術をおこなった。(麻酔なし)
⑦順天堂の治療代。1両=金400疋(ヒキ=10文 1疋200円)8万円で換算。
宿泊~一泊1両。お産~200匹(4万円)(重いもの~500疋)切り傷~一寸につき金100疋 乳がん摘出手術~1000疋(20万円)
手足の切断手術~3両、5両。帝王切開~金10両。
⑧相果て候とも恨み申さず候。~命がけの手術。手術承諾書を提出した。
5、在村蘭学の展開。
①長英と上州の門人たち。~福田宗貞は40歳を過ぎていたにも拘らず、蘭方医を志した。江戸の高野長英てほどきを受ける。
1835、6年ころの治療~痔切断、労咳、耳病、下痢、癌、梅毒、腰脚、風邪。
②高橋景作日記。~1833年長英は上州吾妻郡中之条の医師柳田貞蔵に寄留し、医の講義をした。
~長英が著した「医原枢要」は日本最初の本格的な生理学書。
~医者が普及しても、治療の施しようがない重病に陥ったの場合には、医者にかかる庶民は少なかった。
~漢方薬と蘭方薬を組み合わせた。
~1833年柳田家で長英の講義を受け、江戸の長英塾大観堂に入熟し、1835年に帰郷後、養蚕や農業を営み、
医師として診療や寺子屋教育を行った。
③在村蘭方医と漢方医の交流。~婦人の腫と鬱々を、蘭方でいう「キリイル」腫と診断して、リウマチなどの痛みによる腫れの効果が在る大防風湯を主剤として
全治させた。
天保期(1830~1843年)に入ると、大都市に出なくとも、地方と地方での蘭方医学就業が可能になるほど、在村蘭方医が各地に生まれた。蘭方医学書は近隣村に
筆写され村に普及した。
④セカンドオピニオンと長崎浩斉~複数の医師にかかることは日常的であったし、転医は患者の医師で行われ、高岡の医家たちは最善の治療法を探る為
セカンドオピニオンと臨床医学交流を日常的に行っていた。(医師が完治させる場合が少なかった為、医師の権威が低かったのかもしれない。しかし、
医療の多元主義が当時当たり前であったことは、記憶して良いことだ。松下。)
⑤神農講の治検交流~外科医の長崎浩済は唇は縫うより他になく、妊婦の腹帯は悪いとした。
和田彦齢は井戸水汚染と疾病に関する報告を行った。(この当時に<汚染>という概念があったことに驚く。松下)
1813年医学交流組織<玄聖講>が作られた。~医書相互に貸借して怠らず勉強すること。往診して奇病にてわからぬことはみなの意見を聞くこと。
病家に行き先医が在るときは、立会いを乞い処方容体等聞き合わすこと。
研修や医学交流を求める動きは蘭方医らによる幕末の病院建設へとつながってよく。
6、種痘の普及
①種痘の伝播~ジェンナーの種痘はヨーロッパの恩恵的植民地政策として、1802年インドに最初に伝播した。
日本では鼻孔に天然痘のかさぶたの粉を吹き込む中国式人痘法が大村藩で行われた。
ロシアからの帰還漂流民中川五郎治が、1824年に松前領内で種痘を行った。
②牛痘伝来と普及。~福井への種痘のため、笠原良策は同士の町医と仮除痘所で種痘活動を開始した。(当初は私費だったが、藩営の仮除痘所が開設される。)
しかし、藩医層は非協力的だった。しかし、1852年の冬になって、種痘の実行が庶民に認識され種痘志願者が続出するようになった。
~緒方洪庵の出身地足守藩で洪庵を招き除痘所を設立。1500人余に実施した。
③種痘10万人への願い
④高橋牛痘庵の情熱~秋田角館の種痘普及に命をかけたのは、高橋牛痘庵であった。
天然痘で4割の小児が死ぬこと。貧窮人は謝儀を出さなくて良い。1888年の死までに1万人以上に接種。
⑤信濃での初期種痘。
⑥お玉が池種痘所~1849年、漢方医の反撃により、幕府医官が外科、眼科医外の蘭方医学を修業することを禁じた。
牛痘法が江戸にもたらされると、幕府医官首脳は牛痘に反対した。1857年、首脳である多紀氏の死、蝦夷対策としてアイヌへの強制接種によって、
情勢は一変し。1857年伊藤玄朴らの蘭方医は神田お玉が池に種痘所を開設。1860年に幕府直営。翌年西洋医学所。幕府は医学館(漢方)の2つの
直営機関をもった。頭取、大槻俊斉。その死後緒方洪庵が招かれ、松本良順が補佐した。
幕藩体制の割拠状況は、統一的な防疫体制を妨げたが、種痘の普及によって天然痘の予防が見通しがつき、西洋医学を学ぶ医師も急増した。
(このことが、以後の西洋医学のみ認め、他の医学を排除することになる。)
7、幕末の西洋医学
①長崎の西洋医学伝習
1855年海軍伝習所開設。軍医養成のため、ポンペイがくる(2代目)ここに幕府医師松本良順が派遣される。日本初の洋式近代病院。
5年間の医学教育を実施。(物理学、化学、解剖学、包帯学、組織学、生理学、病理学、調剤学、内科学、外科学、眼科学、法学、医事法制、採鉱学~現在の大学のカリキュラムとほとんど同じ。その後の日本の医学教育に影響を与えた。)
②コレラ流行と蘭方医~1858年長崎でコレラ大流行。(日本に入ったのは1822年) 5月にアメリカの船ミシシッピー号の長崎寄航に始まり
7月に江戸で大流行。死者28000人。東北に及ぶ。ポンペイは生ものを食べないこと、キニーネ、アヘンを服用させる。緒方洪庵は賛成ではなかった。
いずれにせよ、完全な治療法はなかった。
③梅毒とファン・スィーテン液。 ウィーン大学のファン=スウェーテンが長期間の臨床実験を経てショウコウ(HgCl2)の安全用量である
0.104%内服投与液を1754年に公表した。
1775年にスウェーデンのツュンベリーがオランダ商館医として来日し水銀水による治療法を教えた。
長崎の通詞の吉雄耕牛らがその指導の下に治療した。1776年に杉田玄白らに江戸でこの方法を教えた。
駆梅療法剤としてサルバルサンがでたのは1909年。1952年抗生物質療法が確立。
④結核と脱疽~空気感染の結核は都市化が進んだ江戸初期には蔓延していた。労咳について取り組んだ蘭方医、水戸の本間玄調は、伝染病であり、
遊学の書生店奉公人、宮中女、看護人、医者、針医、按摩人に伝染することが多い、とした。
⑤はじめての帝王切開~京都の町医香川玄悦。鉄鉤を発明して難産の婦人の生命を救う回生術を発明した。背面頭首が胎児の正常胎位であることを発見した。
(安産祈願の妊婦腹帯が有害なことを説いた。) その他、分娩にカンシ(首かせ)を用いる。包頭器を用いて分娩させる方法が取り入れ
られた。(このような産科の歴史は安易な自然分娩主義を主張することは危険かも知れない事を示している。松下。)
1852年秩父の伊古田純道が帝王切開に成功した。その農婦は89歳の天寿を全うした。(飯能市)
⑥蘭方医学と眼科~近江出身の京都の眼科医柚木太淳が先駆者。ポンペイの講義録を佐藤舜海閲が「眼科要諦」として1868年刊行。現代の眼科書に通ずる。
⑦清家堅庭の医療活動。
⑧イカ釣り蘭方医柴田収蔵~佐渡出身。司馬江漢の世界地図に出会い、蘭学を志す。
⑨顕微鏡の利用~18世紀後半から物産会等の知識化がすすみ、西洋画法の影響と蘭鏡(顕微鏡)の導入により精密な図譜類がつくられた。
桂川甫周は「顕微鏡用法」で始めて顕微鏡を医学に応用した。
顕微鏡が単なる異国趣味でなく、実証的な医学上の衛生知識をもたらした。
⑩西洋医療器具の普及~1848年モーニッケにより聴診器が長崎にもたらされた。
1724年ドイツのファーレンハイトが近代的温度計を最初に作成し、オランダのプールハーヴェが医学に応用し、検温の必要性を説いた。
平賀源内が日本で最初に温度計を作成した。エレキテルによる電気治療も行われた。(リウマチ、神経症)
⑪洋薬・洋法での診療~亜酸化窒素、エーテル、クロロホルムなどを使った近代麻酔法の導入。
クロロホルムでイギリスの産科医シンプソンが1847年に無痛分娩に成功
1865年オランダ医師マンスフェルトが長崎で皮下注射をおこなった。
蘭方医薬による治療は庶民に受け入れたれた。
8、維新と西洋医学への傾斜。
①戊辰戦争とウィリスの医療~イギリス公使館付医師、1861年来日、鳥羽伏見の戦いでの医療活動。手術でクロロホルム麻酔で患者からも土地の住民からも
喜ばれる。清潔の確保が病を防ぐ。病院の設立を提唱。官軍の要請で越後高田から柏崎へ従軍。敵兵を無差別に殺さないこと。適味方区別なく治療。
旧幕府医師高松凌雲は函館戦争で榎本軍に加わったが、官軍との区別なく治療し、その博愛主義が後に赤十字を生んだ。
②地域医療の近代化~幕末、維新当時に西洋医学が普及したと言っても、多くの医師は漢方医であった。しかし、西洋医師を中心に各地に病院建設、医師研修
が進み、地域医療が推進された。
薩摩藩では薩英戦争後、洋式軍政改革が進められ、1864年に開成所が開かれ、軍事、理化学、医学の教授が行われた。1869年ウィリスを破格の待遇で招く。
鹿児島医学校設立。一期生の高木兼寛は脚気治療で活躍。海軍軍医統監。1872年京都府仮病院発足。
明治初年の西洋医学化に対応できるだけの西洋医が幕末から明治にかけて排出した。
Ⅵ、西洋医学体制の確立
1、「医制」の公布と医学の「近代化」
①新政府の発足とドイツ医学の採用。
1867年王政復古の大号令。幕府の諸施設は処理された。医学館は西洋医学の拠点である医学所に属する。
太政官布告で医学の振興が謳われている。一時はイギリス医学採用の機運が高まったが、1969年医学取調御用掛の相良知安がドイツ医学を採用した。
役人、医学校・病院の幹部がポンペイ、シーボルトから学んだことがその理由。また、蘭医学書は多くはドイツ書であったこと、支配層がプロイセンの君主制に
親近感を持っていたこともその理由。
②長与専斉の渡欧と「医制」
岩倉施設団渡欧。長与専斉はその一員。「サニタリー」「ヘルス」「ゲズントハイツプレーゲ」など衛生に関する言葉に注目。公衆行政、公衆衛生の概念に驚く。
帰国後文部省医務局の局長になる。新政府誕生後数年は伝染病、不良薬品の横行などで、医療をめぐり不安定な状況が続いたが、近代的な保健・医療仕組み
は整備されていなかった。富国強兵策では、医療の近代化は焦眉であった。1873年文部省は「医制」を上申し、翌1874年公布した。
衛生行政機構、医学教育、医師開業免許制度、医薬分業等等。「習俗事情に拘わることなく真一文字に文明の制度ののっとり」定められた制度だが、
漢方主体の日本の医療制度をスムーズに刷新したわけではない。漢方医の抵抗によって、西洋医学を基にした医師開発免許制度の確立まではその後
長い時間が必要であった。当時の日本人の生活実態をみると、こうした上からの近代化の動きを受け止める態勢が整っていなかた。
2、伝染病と衛生行政
①急性伝染病の蔓延。~幕末から明治初期にかけての人口の大幅な流動化は、伝染病を蔓延させた。
種痘技術は江戸時代に確立していたので、死者は激減したが、罹患者を治療する方法はなかった。都市でも上下水設備は普及しておらず、糞尿が近郊農村で
肥料として使用されることが多く、コレラ、腸チフス、赤痢などの消化器系の伝染病が拡大した。
(江戸期の循環型社会を再現することは容易ではないことが判る。松下)。治療方法はなく、対処療法と看護によって自然治癒に頼るしかなかった。
伝染病を食い止めるには、上下水道などの衛生設備が必要であるが、公衆衛生政策は後回しにされた。政府の政策は検疫強化と消毒、遮断、隔離に
重点が置かれた。患家には縄が張られ、目印の黄色い紙が出された。地域から隔離さるのを恐れて天井裏に患者を隠す例も少なくなかった。政府のコレラ
対策は社会防衛、治安維持を主眼に行われ、遮断、隔離、消毒するのは警察官であり人権は踏みにじれられた。患者は避病院に収容され、
十分な手当てうを受けることもなく、その死は悲惨であった。「亭主持つなら巡査はもつな。巡査コレラの先走り」と言う歌が流行し、病死人護送の巡査が
暴行されることもあった。流行の激しかった1879年には各地で農民一揆がおこり、医師や巡査が殺されることもあった。
②衛生行政の変遷~1875年医学教育と衛生行政の分離に伴って、文部省医務局は内務省衛生局に移管された。衛生行政は警察力を行使して展開された。
医療政策ではなく、病毒を排除、遮断して社会の不安を鎮める社会政策と位置づけられた。1879年のコレラ大流行。警察による上からの施策が断行されたが、
庶民の自主的な動きも見られた。長野県の薩摩軍では、公選の衛生委員が予防消毒等に活躍した結果、コレラ患者を一人も発生させなかった。そのような
住民の動きにを基にして公衆衛生委員制度がつくられた。その背景には自由民権運動と「自治は衛生の大儀」と考える長与専斉のような開明的な官僚の
存在があった。しかし、公衆衛生委員制度は長く続かなかった。18881年の政変後、反政府運動は弾圧され、1886年、地方官官制の制定に伴って
地方衛生行政は警察へ移管され、公衆衛生委員制度は廃止された。かわって、衛生組合が設立。清掃と伝染病阻止を目的にした組織化が進む。組合長は
地主、家主が指定。衛生行政は警察主導に。その確立後に日清戦争開戦。明治初年に長与が構想した「衛生自治の仕組み」は戦後まで実施されなかった。
3、医療制度の整備
①病院の登場~まず建設した病院は幕府との抗争による戦病者を受け持った。1868年軍陣病院。大学東校の付属病院へ。1870年、廃藩置県で廃止された
病院の再生が進んだ。1877年にはほとんどの府県に病院が設立され、大半が医学校が併設された。西洋医学の伝達と普及に寄与した。1874年52あったが、
1882年には62となった。官立病院、公立病院は医学教育と富裕層の診療に重点がおかれた。困窮者には開業医があたった。松方財政で転記。
松方財政~天皇制国家財政、デフレ政策、軍備拡張。軍事、産業優先。衛生は削減され、府県による公立病院の経営や公立医学校の運営は禁止された。
その後、私立病院を中心に病院は発展。しかし、その恩恵を受けたのは一部の人々。
②医師の養成~医師の国家試験。1875年東京、大阪、京都に試験の施行を通達。1878年には衛生行政は内務省に移り開業試験が全国的に実施。
1874年、開業者 洋医役5200人、漢方医約2万3000人。既存の漢方医は一定の履歴を有するものに限って無試験。洋医学試験に合格しなければ
新規開業は出来なくなった。様々な抵抗をしたが、次第に漢方医は勢力を弱めた。1883年漢方の診療も西洋医学試験を合格したもの出なければならなくなった。
しかし、東洋医学は制度上は排除されたが、完全には消滅しなかった。人々の日常生活には伝統的な医療が生き続けた。様々な民間医療は西洋医学の
発送とは異なる自然治癒力に基づいた東洋医学の影響が色濃く見られる。加持祈祷も今でも消滅したわけではない。宗教家や呪術師の施す治療は
庶民の生活の中で、西洋医学治療を補完するものとして無視できない。
③看護職~1880年看護婦学校を付属する病院が現れる。東京では高木兼寛が有志共立病院に看護教育書を設立。京都では新島襄が同志社病院
看護婦学校を設立。アメリカ人の指導による看護教育を開始。1890年日本赤十字社による看護婦養成開始。その前身博愛社は西南戦争の負傷者を
救護する為に設立。1886年、陸軍の後援で博愛社病院を設立し、赤十字に加盟。翌年日本赤十字社と改称。日清戦争における看護婦の活躍は
看護婦養成の拡大を促した。日本赤十字社の各支部を通じて速成された。日露戦争において看護婦不足。その後戦争における需要に応じて増加した。
1900年、開業医によって看護婦が求められ、医師会によって養成が始まった。江戸時代に女性の職業として認められていた産婆は、1899年試験制度が
導入された。
4、人々の暮らしと病の諸相
①薬売り。~医療保険制度が普及するまで、庶民は病院や医師による診療とは無縁であった。それを支えていたのは伝統の薬であった。最も古い大和の売薬
は南北朝に始まり、江戸時代に修験者によって広められた。富山、熊本、山口、広島、佐賀、長崎など各地の売薬が活躍した。1970年代まで続いた。
②性病~16世紀から梅毒に関する記録が始まる。公娼制度が性病の震源地で治療方法もないまま全国に広がる。杉田玄白「形影夜話」年間患者数1000人
の内7~8割は性病患者、と記している。ポンペイの性病対策の進言を幕府は無視した。維新後、政府はイギリス公使パークスの進言を入れて、遊郭に
梅毒病院を設置した。1872年「芸娼妓解放令」を出して人身売買を禁じた。しかし、「貸座敷」として温存された。性病はコレラなどのように社会に見える形で
衝撃を与えるわけではない。公娼制度を容認する社会にあっては、対策は進まなかったが、徴兵制度が始まってから、その弊害が問題化された。徴兵1000人
当たりの性病比率は約24.5で推移した。最も多かった梅毒の死亡率は1911年統計で1000人当たり9.6人と高かった。(腸チフス・7.3 赤痢 6.5)
1910年ドイツのエールリッヒ、日本の秦佐八郎がサルバルサンを発見したことにより、治療可能になった。しかし、副作用が強く、ペニシリンの登場まで完全な
治療法ではなかった。
③脚気~日本人の主食が白米に移行し始めた江戸中期から出現した。明治には国民病といわれるほど蔓延した。産業が集中した都市の貧困層に多かった。
白米の他に副食を摂らなかった為である。1878年、政府は神田に脚気病院を設立して、漢方、西方の比較検討を行った。1878年には陸軍の3分の一が脚気
に罹った。海軍の高木兼寛は脚気と食餌に注目して、兵食を改善して効果をあげた。陸軍は当初これを批判したが、次第に麦食を取り入れ、効果を挙げた。
1909年森林太郎医務局長の下で臨時脚気病調査会が結成され研究が開始された。1910年に鈴木梅太郎がオリザニン(ビタミン2)を発見。しかし、
麦飯の経験的効果を否定していた当時の日本の医学者たちは、オリザニンの重要性を理解でず、高峰の発見が役に立つまで時間を要した。第一次
大戦後ビタミンの研究が進むと、調査会もビタミンB1欠乏説を認めざるを得なかった。しかし、食生活や栄養が病因にかかわる病気は、その後もなく
なったわけではなく、現代社会で問題化されている「生活習慣病」には、食生活と深いかかわりを持つ。(然り。超ミネラル水を飲もう。松下。)
Ⅶ、産業社会と医療
1、産業化と救貧医療
①病気と貧困~1873年内務省設置。軍事、鉱山、鉄道、通信などの官営化、製糸、紡績などの官営工場設立、輸入機械の払い下げ助成金公布による
私企業育成といった「殖産鉱業」政策が実施された。地租改正は農民の急速な階級分化を促し、農民の離農や都市への流入が始まる。多くは未熟練の
肉体労働に従事し、家族全員で最低限の生活を維持する貧民層を形成した。(なぜ、貧困層が多数はになるのだろうか?中間層が多数派にならないのはなぜ
か???? 松下。)当時の医療機関は、主として中流以上の階層を対象にしていたので、貧しい人々は受けられなかった。産業化は病気と貧困から抜け
脱せない労働者を生み出した。
②救療事業~疾病と貧困の悪循環が社会問題化すると、貧しい人々に対して医療を提供する動きが現れた。1874年東京府病院の設立。病人は
役所に施療券を申請して受け取り、診療を受けた。(財政悪化により1881年廃止。) 高木兼寛らが貧困者を救う為、政財界からの賛同を受けて
1883年有志共立東京病院(慈恵病院の前身)を開設。貧しい人々を無条件で受け入れたのに対し、患者に医学教育への協力を求めた。
(人体実験への協力ではなかったのか?松下。) 1877年東京大学発足。医学部付属病院に施療患者制度が設けられた。~「施療」の目的は
医学研究のための患者確保であった。受信者は「学用患者」と呼ばれた。貧しい患者は、医学研究や医学教育の「素材」として扱れた。
③慈恵医療~日清、日露の戦争と大陸侵略は、軍備費を増大させた為に、増税により貧困が拡大し、健康を損ねる人々が増大し社会問題化した。
日清戦争後は労働争議が頻発し、労働組合が出現する。1900年治安警察法公布で労働運動を弾圧した。1910年大逆事件を下火になる。1911年工場法
制定。(労働者保護) 施薬救療を目的とする恩師財団済世会発足~貧困は「一国の活力を消耗し、一国の生産力を減殺する。」(弱者救済ではなく、国民を
国に有用な人的資源として担保しようとした。) 恩賜財団済世会の設立~貧困者を対象にした医療事業に取り組む。1923年42000人、1926年54万人
が治療を受けた。患者が急増する一方、第一次大戦後の不況の中で、事業は困難を極めた。社会防衛、人的資源の涵養の視点で運営されたので、患者
医師ともに問題をはらむ事業であった。
2、医師会の設立と社会化の動き
①医師法の制定~1883年、明治政府は、太政官布告35号「医師免許規則」をだしてそれまで曖昧であった医師の資格を明確化した。明治後半には
その不備を指摘する声が上がり、法律改正の動きが現れた。開業医の団体である大日本医師会は、1898年、医師に対して強い監督権を持つ医師会の
設立を目指す「医師会法案」を衆議院に上梓した。法案は廃案となったが、医師の身分法を制定する必要性が認識された。反対派の明治医師会は、一定の
医学校卒業以上の者に免許資格を付与し、内務省の医術開業試験を廃止する医師免許規則改正案の検討を開始した。1903年明治医会に対抗して
医師団体帝国連合医師会が誕生。明治医会は医学校卒業生の特権を守ろうとしたしたのに対し、開業医の利益を守ろうとしたので、妥協点は見つからなかった。
1906年両者の折衷案が、医師法として成立した。医師免許は医科大学、公官立医学専門学校、文部大臣が指定した私立医科専門学校を卒業したものに
付与され、それ以外は医師試験が課せられた。医師の身分保障が確立した。以後開業医は発展して行く。
下流医~医学を学んで試験に合格したもの。漢方医を中心とした従来の開業医、官公立病院に奉職していた奉職履歴医、医師が足りないので、地域限定の
無試験医が含まれ、その水準はバラバラであった。これらの下流医の収入は少なかったが、それでもその診療費は庶民の手の届かないものであった。医療は
富裕層のものであった。
②医師会の誕生~1907年医師会規則公布 強制加入 各地で医師会が形成された。 1916年 薬剤師が医薬分業を提起 医薬分業の原則を認めつつ
医師の薬剤調合、販売が認められ、医薬分業は有名無実化した。薬剤師は調合権の確立を目指し、医師と対立したので、医師は大日本医師会を結成して
対抗した。医師会は自らの身分や権利を確立するだけでなく、医師の社会的役割や医療のあり方を追求することが期待されたが、薬価や診療の議定に主眼が
おかれ、医師の倫理や医学、医療に関する取り組みは乏しかった。
③医療社会化の動き~日露戦争後停滞していた日本経済は第一次大開始で好景気を迎えた。 1920年の株価暴落、1923年の関東大震災、1927年
の大恐慌で長期不況を迎える。対戦中の好景気で巨額の利益を得た大企業は、戦後不況でも発展を続け独占資本が形成された。一方、大企業の支配下に
置かれた中小企業と農民の経営は困難を極めた。1918年富山の米騒動が全国に及ぶ。労働争議、小作争議も多発。大都市では貧困層の困窮化が進む。
医療をいけられない人々が増える。当時医療も資本主義の独占化の過程で営利性を帯びてきた。細民(貧しい人)は職を失い、それが医療を受けられなくした。
鈴木梅太郎~天皇の慈悲による慈善の色合いが濃い済世会とは異なる方法で細民医療を行った。三井銀行支店長、王子製紙専務、三越デパート常任監査役。
福沢諭吉門下の自由主義者であった。1911年社会法人実費診療所開設。日収1円50銭以下の階層を対象に、内務大臣の許可を得て低廉な診療を実施。
世論の支持を受けて患者は増加したので、医師会がその勢いを恐れ、政府に認可取り消しを求めて撲滅運動を展開した。1930年代にこの事業は減少し始める。
その理由は医療の社会化を目指す加藤(協力者)と鈴木の対立、1927年健康保険法施行による患者の負担軽減。やがて、実費診療所開設が実施した
低廉なな診療は健康保険制度の中で実現する。社会医学研究会(東京帝国大学学友会に属する)は鈴木とは異なる形で医療社会化の方向を提示。
「医学の社会科」(小冊子)を刊行。~疾病医療は医学の消極的面にすぎず、疾病予防健康増進こそ、重要である、と明記。(このように早期に
予防医学を提起した事は、明記されるべき。松下) 医師による医療の独占支配を排して、全ての人が治療を受けられる制度をを作る必要性が強調される。
3、結核の蔓延と乳児死亡率の上昇
①女工と結核~結核は先史時代から人類を苦しめてきた感染病である。日本では江戸期時から医家に注目されてきた。明治期産業の発展とともに
「国民病」になった。資本主義発達期の労働者、農民の過酷な生活と不衛生な住環境は感染から発病までを加速させた。
石原修~内務省と農商務省から嘱託されて、工場調査を行った。結核と基幹産業の繊維工業との関係を明示し、工場法の施行を推進した。
工場労働者を93万人~80万人と推定(内49万人が女性~その6割が繊維工場で働く20歳未満の女性)10歳代の女性は、食餌も睡眠も不十分な状況の下で
1日14~16時間働かさせられた。連続夜業は体重を低下させ発育不全を起こした。「この夜業というものは人間を長い時期において息の根をとめつつある
行為ではないかと思われる。」劣悪な労働環境、長時間労働、寝具の共同利用が結核伝染の温床となった。問題は工場の外にも広がった結核に罹患した
者は解雇されて、職を転々と変えつつ都市で生活するか、帰郷した。それが、都市、農村に結核を広めた。政府は結核死亡者数はその後も増加し、事態を
看過出来なくなった。1919年結核予防法~全国療養所を設置したが、治療方法が確立していなかったので、救貧施設の域を出ない。本格的な取り組みは
軍隊において結核が深刻化する1930年代までまたなければならなかった。
②乳幼児死亡と母子保護~結核と並んで乳児死亡率が高かった。医療、衛生環境に問題がある地域や、貧困層、非嫡出子に多かったことは、その社会性を
示している。生後1年未満の乳児死亡率~1000人に対して150人。 1918年 188.6人。1916年国民健康状態調査「保健衛生調査会」~1、乳幼児、学齢児童
と青年の保健衛生、2・結核、3・花柳病、4・ライ病、5・精神病、6・衣食住、7・都市と農村の衛生状態
1920年代には、都市部を中心に様々な保健指導機関が登場した。保健婦の訪問指導。農村でも独自に保健婦を雇って無医村に派遣した。
準戦時体制における「人的資源の確保」
Ⅷ 戦時体制下の医療
1、厚生省の創設と厚生行政
①厚生省の誕生
1929年の恐慌は国民生活を圧迫し、健康状態も極度に悪化した。徴兵検査で国民体力低下の進行が明らかになった。徴兵免除の不合格者は
1920年代後半~1000人につき250人、1930年代~400人 筋肉薄弱者、結核が増大。1936年代は農村部だけでなく、都市部でも多くなる。
陸軍医総監、医務局長から「衛生省設立」が提案される。1937年に誕生した近衛文麿、内務省社会局、逓信賞簡易保険局を含めた大きな
行政機構を作ろうとしていた。1938年厚生省誕生。
②人口政策の展開
江戸時代に漸増状態にあった人口は急増した。1872年 3500万人 1937年7000万人 経済発展の原動力として 人口増加政策を推進した。
衛生や医療制度の不備の為、人口動態は多産多死型であった。米騒動~規制地主制度下における農業生産の停滞と急速な資本主義発達による
米の需要増大との矛盾に起因する。 国は人口増加策を維持しなが海外進出により解決を図った。1940年代には積極的な人口膨張政策が打ち出された。
戦地への医師動員は国内の医師不足を生んだ。それを補い為、保健婦であった。疾病の予防、健康増進、以上障害の矯正、生活環境の整備、疾病の看護に
あたった。1942年に国民体力法が改正され、乳児の体力管理まで行われた。保健所が体力管理の中枢機関となった。諸政策は財源と人材不足により効果は
上がらず、国民の生活と健康は悪化した。保健婦は人間の生命を守る仕事が、それらを破壊する戦争の為である、と言う矛盾の中で行われた。
2、医療の国家管理
①国民医療法の制定
開業医制度では医療機関は都市に集中した。無医村地区があった。 1929年 2909村 1939年 3600村 国民全体の体力向上に支障をきたす。
開業医制度の存続と無医村対策として国営医療の拡充が提示されたが、医師会の強い反対で後退した。過密医療機関地域の新規医療制限、医師の勤務
指定制度、徴用制度の創設、無医村地区への公営医療機関の設置、健康保険制度の拡充。
医師免許の実施修練制度の充実や医療内容の監督強化。医師会を国策に協力する機関に改組する。1942年、国民医療法のが成立。戦時体制に適合した
医療制度の実現。医師会、歯科医師会は、国策に協力する管制の団体の位置づけ。大臣が医療関係者の給料を規制できる。
②日本医療団の設立。
結核医療所の増設。無医地区解消に必要な診療所や地区総合病院の新設。関西と関東に中総合病院を設立。道府県に総合病院を47箇所作る。都市の中心
588箇所に地方総合病院。町村に地方診療所を作る。1947年医療団解消時の施設~都道府県病院20、地方病院198、診療所282、産院5、結核診療所96
であり、初期の目的を達成できなかった。一方、戦時体制の進展とともに、軍関係の病院は拡充された。17の赤十字病院が陸軍病院に転換された。医師の需要に
対処する為に各地に速成量産教育を行う医学専門校には付属病院が併設された。1941年、医療関係者徴用令。(医師の戦時体制動員)。1945年病院数
645。
3、戦時体制化の健康問題。
①生活環境の悪化
戦争による1940年代~農業生産力低下。食料の軍需への供給により、民需への供給不足。1942年食料の配給制。1944年後半には「配給なし」の日が増える。
病人、乳児、高齢者を苦しめた。戦力維持の為、「保健国策」を実施したが、これらの人々は除外された。役に立たない人間として差別された。
②医療の荒廃。医療従事者は戦地に導入された。残された従事者も、防空救護業務にかり出され、個々の患者に対する日常業務に対応できなかった。
医療品も軍需に供給された。
急性伝染病が急増した。赤痢、腸チフスなど消化器系疾患の増加が著しい。~十数万人が死亡。ハンセン病、精神病、結核、急性伝染病患者は社会から
隔離された。
一般療養所~1500カロリー。傷痍軍人療養所~2500カロリー以上。
③戦争による社会病
1943年14~25歳までの未婚女性が工場労働に従事。(女子挺身隊) 1944年 学徒勤労令。~労働災害が増加。
原爆~被爆障害調査委員会(アメリカ)~治療ではく、調査を行った為、患者から抗議された。厚生省はアメリカに協力した。
Ⅸ、戦後の医療
1、占領期の医療改革
①GHQの政策。公衆衛生福祉局~局長~クロフォード・F・サムス~伝染病、社会不安をなくす。
伝染病の増加~栄養不良、復員者が病原菌を持ち込む。
食料不足~1946年メーデイ~25万人皇居集会。~マッカーサーは食料輸入をアメリカに要請。援助物質が日本人の生命を救う。
②医療システムの形成。
1946年 PHW 厚生省管制が改正 公衆保健局、医務局、予防局を新設。局長は技官(医師) 技官重視の新しい流れの中でも、内務省の流れを汲む
多くの官僚が衛生行政を担当した。GHQは戦前からの官僚組織を解体することなく、再編を図った。
1947年 地方自治法改正~都道府県に衛生部と民生部を設置。 警察制度の改革。警察が所管していた衛生警察事務は、衛生行政部門に移管された。
代わって保健所が衛生行政を担った。東京都杉並区にモデルの保健所を設けて、PHWの指導で全国から集まった人に講習した。地方の実情から離れた
部分もあったが、近代化に貢献した。
PHWは全国の病院の実態調査を行った。 軍関係の医療機関を厚生省に移管した。
朝日茂~朝日訴訟~生活保護法の不備を訴えた。
③占領統治下の沖縄
占領軍保全のための伝染病と性病対策に重点がおかれた。 占領軍の保全のために伝染病、性病対策 占領軍相手の売春婦への治療を優先した。
2、 高度成長期の医療
①医療保障の確立
1947年 社会保障制度要綱~傷病、廃疾、死亡、出産、育児、老齢、失業、に対応した手厚い手当金や年金の給付、所得に比例した保険料、使用者
国の一部負担の導入、統一した機関による一元的運営。~夢物語として実現しなかった。1948年アメリカ社会保障調査団
(学識経験者と言われる人種の無能力さが露呈。松下 。)
ワンデル報告書 1950年 「社会保障に関する勧告」 最低限の社会保障制度を提示した。
実現させる財源がなかった。 当面の困窮者救済と治安維持を目的とした生活保護中心の占領政策が続けられた。
一定規模の企業で働く労働者、公務員、農業従事者を対象とした医療保険はあった。社会保険制度審議会は、1956年3000万人の無保険者がいることを
明らかにして、国民皆保健を求めた。~大都市の貧困層の増大と言う社会問題対策と高度経済成長維持を目的としていた。
1958年 国民健康保険法、 1961年国民皆保険制度~併存する医療保険はその内容が異なり、平等に医療を保障したわけではない。
低い給付と重い一部負担金と保険料、医療機関の偏在のため、利用しにくかった。大企業の健康保険と比べると大きな格差があった。
②病院の急成長
医療機関の適正配置がないまま、皆保険がスタートした。
占領政策の転換後、医療の公共性を実現す施策が財政の裏づけがないまま消滅した後、政府は医療機関の整備を民間にゆだねた。
1948年 国民療法 廃止。 医師法、歯科医師法、保健婦、助産婦法が成立。医療法が成立。
医療法~病院が国民全体に必要最低限の医療を提供する期間として運営される為の法的基盤。しかし、資本不足のためこの法律を具体化する条件を欠いていた。
1951年 朝鮮戦争特需、高度成長経済のもとで、病院建設ブームが起こる。1946年3800が1971年には8000に増えた。ベット数~16万→100万 多くは
私的医療機関であった。営利追求は地域格差を生んだ。
③人口の高齢化と病院構造のの変化。
寿命が延びた要因~医療技術、医療システムの整備。衛生状態の改善。食生活の改善。 長寿が幸福と結びつかない。~高齢者の病気の長期化。
「寝たきり老人問題」~1960年代に発生。社会問題化。医療は急性疾患治療に効果的だったが、慢性疾患には有効ではない。
1963年 老人福祉法 特別養護老人ホームの整備が進んだ。~医療が欠かせない人や認知症の老人が利用しにくい。家庭介護、老人病院における「収容」の悲惨な
実態の解決にはならなかった。
1982年老人保健法。~病気の予防、治療、機能訓練。
2000年 介護保険法 医療保険から介護部位分を切り離そうとしたが、医療保険制度の困難性は解決していない。
1990年代から、厚生省は成人病を減らす為に健康つくり運動を始める。20000年事務次官通知によって、「21世紀における国民健康つくり運動」
(このようなことが」一官僚の一枚のペーパーで実行に移されることは官治の一例である。松下。)
治療困難な病気や障害を抱えて、長い人生の最後を送らなければならない。
④これからの医療
単一の病因の除去や改善によって治療に導くことができない疾患が増加した。~個別的対応を重視する医療。医師が客観的、科学的に診断するのではなく、
患者の苦しみ、解釈、期待、感情などを反映した病気を、患者とともに共有し、共通基盤をきづきながら、治療を進める。患者も医師のパターナリズに委ねるので
なく、自分自身の問題として病気と向き合い医療に参加する。
医療は医師を中心とする医療者が主導する専門分野ではなく、全ての人が主体的にかかわる普遍的な領域となった。~現状は程遠い。目指す方向である。(松下)

<コメント>
医療も海外から権力者に移入され、歴史の経過とともに、下へ降ろされたことがわかった。徳川時代は鎖国によって、その傾向はややなくなり、民間学者
が蘭学、西洋医学を移入し、明治以降の近代医療の基礎を築いた。明治維新後約20年間の抗争をへて西洋医学に統一された。(医療の一元化)
これらのことを考えると、ワイル理論である予防医学を主体とした未来の医学の実現は大きな困難にを覚悟しなければならない、と思います。
超ミネラル水の広がりは、この困難を克服する強い武器と思います。
|